~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-01)
被害者はベッドの上に横たわっていた。救急車に乗って来た若い医員が傷口を調べていた。医員は血に染まった肩に背をかがめていたが、
「右肩胛骨けんこうこつ上方の貫通銃創です」
と後ろを向いて報告した。
警官が四、五人立っていたが、うなずいたのは、一番前に居る三十過ぎの警部補だった。
「生命に別条ないですか?」
医員に訊いた。
「大丈夫だと思います」
怪我人は眼をつむっていたが、呻いていた。血はシーツを染めている。
もう一ヵ所、血が溜っている場所があった。部屋のほぼ真ん中にクッションがおちて、椅子の下の床に血が垂れていた。spの傍にフロアスタンドがあったが、それが給った血をぎらぎら光らせていた。
別の警官が、窓際のガラスの割れた部分を調べている。
警部補は、被害者の蒼い顔をのぞき込んだ。
「命には別条ないそうですよ。しっかりなさい」
被害者は、四十を過ぎた男である。宿のパジャマを着ていたが、恰幅かっぷくのいい身体と、上品な顔だちをしていた。こういう一流ホテルに泊まるくらいの人だから、社会的に地位のある人か、金持なのである。
「お名前は?」
「吉岡です」
怪我人は、うす眼を開けて警部補の顔を見つめ低い声で答えた。
「吉岡? 吉岡何といいますか」
正雄まさおです」
警官の一人が、宿泊人名簿から書き抜いた紙片かみきれを警部補に見せた。
「吉岡さんですね。住所は、東京都港区芝二本榎しばにほんまつ二の四・・・そうですね?」
警部補は、怪我人の苦痛を考えて、当人が宿泊人名簿に書いたとおり読み上げた。
その通りだ、というように被害者はうなずいた。
「詳しいことは、入院なさってから伺いますが」
被害者が弱い声でさえぎった。
「入院しなければいけないのですか?」
警部補は、軽い笑いを唇にうかべた。生命に別条ないと教えてやったが、本人はこれほどの負傷を簡単に考えているらしい。このまま、明日の朝にでも東京へ帰るつもりでいるのかも知れない。
「かなりの怪我ですからね。このまま帰るのは、ちょっと無理ですよ」
警備補は言った。
「応急手当をしていただいて、東京で入院というのは駄目ですか? 飛行機で帰れば、三時間で東京に着きますが」
被害者は、苦痛のなかに頼むような表情になった。
「無理でしょう。命に別条ないといっても、かなりな重傷ですからね」
被害者は何か言おうとしたが、口をつぐんだ。痛みが襲って来たためであろう。
「どこで射たれたのですか?」
被害者は、顎で椅子の方をしゃくった。
「ああ、あそこですね。あなたが坐っていらしたのを、うしろから狙われたというわけですね」
そうだ、と言うようにうなずいた。
「ピストルは、窓ガラスの外から射たれている。スタンドに灯を点けて、あなたが坐っているところを狙っているんです。何か本での読んでいらしたのですか?」
「新聞です」
「射たれる前に、物音を聞きませんでしたか?」
気が付かなかった、というように首を振った。
「犯人に心当たりがありますか?」
これにはすぐに被害者の返辞はなかった。眼を閉じていたが、
「いいえ」
とうす眼を開けて答えた。
「しかし、物盗りとは考えられません。犯人は、最初からあなたを射つつもりでピストルを発射しています。どうか、隠さないで言って下さい。およその見当もつきませんか」
「全然、心当たりがないのです。
2022/10/29
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