~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-02)
この時、部屋の中を捜索していた別の警官が、ハンカチに包んだ物を持って来て警部の前に拡げた。
ハンカチの中には小さな弾丸が載っている。
「その壁の下にめり込んでいました」
巡査は、その位置を示した。窓ガラスの割れた所と、被害者の坐っていた椅子と、その壁の位置とは一直線になっている。被害者の肩胛骨上部を貫いた弾丸は、その壁に射込まれていたのである。
警部補は黙ってうなずき、また被害者の方へむかった。
「職業は?」
と宿泊人名簿の書抜きをのぞいた。
「会社員とありますが、どこの会社にお勤めですか?」
返辞をしばらくためらっていたが、
「自分で経営しています」
としばらくして答えがあった。
なるほど、この人品からみると、社長と言っても不自然ではない。
「会社の名前は?」
「貿易のほうをやっています」
「会社の名前をお訊きしているのです」
「吉岡商会といいます」
「会社の所は?」
「自宅の同番地が事務所になっています」
「なるほど、ご家族は?」
被害者は顔をゆがめた。傷口の痛みが襲って来たようである。
「妻と、子供が二人です」
「奥さんの名前は?」
被害者は、苦痛と闘うように唇を噛んでいた。
糸子いとこです」
「着物を縫う、あの糸ですね? 糸子さんですね。奥さんは、あなたがここにお泊りになっているのをご存知ですか」
「知らないでしょう」
と首を振った。
「商用で京都に来ていることは知っていますが、どこの泊まる予定かは知らせておりません」
「ぼくの方から連絡を取って、奥さんに御通知いたしましょう」
「それは・・・やめて下さい」
被害者が少し高い声で言った。
「どうしてですか? これほどの大怪我をなさったんですよ」
「いえ、知らせないで下さい」
警部補は、じっと被害者の顔を見つめた。何か深い事情があるらしいと、瞬間に覚った。
入院をしたくない様子といい、家族への連絡を断わることといい、この被害者は複雑な事情を持っているらしい。そのことは、加害者と被害者の関係を想像させた。つまり、この被害者は心当たりはないといっているが、実際は知っているのではないか、という疑いがあられていた。
「今から病院の方にお運びします」
警部補がそう言ったのは、とにかく、怪我人を移さなければならないからである。
被害者吉岡正雄は、黙ってうなずいた。諦めたような承知の仕方であった。
2022/10/30
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