~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-03)
被害者は多勢に抱えられて担架に乗せられ、ホテルの表に待っていた救急車に担ぎ込まれた。
あとは、警察の人たちで現場の実況検分書が作られている。血の留まった所に白いチョークで書く者や、写真機で撮影する者、窓ガラスから椅子までの距離を巻尺で測ったるする者など、独特なあわただしい雰囲気になった。
警部補が指揮してる。
階下には、懐中電灯を点けて、犯人の逃走路と思われるところを調べている組もあった。
見取図がざっと作られた。
警官の一人が警部の所に寄って来て、犯人の逃走路を説明していた。
「犯人は、ホテルの裏側からやって来たようです」
図面の上に指を当てていた。
このMホテルは、道路の横の高台に建っている。裏は山の裾になっていた。従って、裏から侵入するのは容易である。べつに厳重な塀があるではなかった。
「この崖から下りて来たようです」
警官は、ホテルの建物の裏側を示していた。
ホテルは五階になっているが、その途中、ほかの建物が付随しているので、足がかりは幾つもある。突き出た別の屋根が階段型をなしていた。
しかし、405号室の窓側に寄るには、かなりな熟練を要する。一メートル下がほかの建物の屋根になっているが、窓際には僅かな足がかりしかない。敏捷びんしょうな者でないと出来ない動作である。
それに、最初からその窓を目的として来たところをみると、犯人が吉岡正雄という人物を狙っていたことは確かである。窓ガラスの破片は、ピストルが極めて近距離から発射されたことを見せていた。その現場から直線を引くと、部屋の見取図の中央に被害者が腰掛けた椅子が書き込まれてある。
「犯人は、ピストルを射ったのち、すぐに、この屋根をい降りて、階段型になっている別な屋根に移り、地面に飛び降り、逃走したようです。逃走経路は、進入路とはほとんど同じだと思いますね」
警部補は図面を見て、いちいち、うなずいていた。
「物音を聞いた者はいないかね? これだけ上がって来るには、屋根を踏む跫音や、上るときの物音が必ずしている筈だ」
警部補の言う意味は判った。その跫音で、単独で来たか、発射した人間は一人だとしても地上に見張りの者が居たということも確かめねばなrない。
警部補の横に、当夜の宿直主任が立っていた。
「隣は、どういう人が泊まっていますか?」
警部補は訊いた。
隣というのが406号室である。図面で見ると、その部屋の真下が、足がかりになった別棟の屋根の突き出た位置になっている。
「こちらの部屋は、外国人です」
当直主任は蒼ざめた顔で答えた。
「外国人?」
「はあ、フランス人の方です。御夫婦ですが」
警部補は、ちょっと当惑した。日本人だったら、真夜中でも起こして、参考に訊問するつもりだったのである。
「いつまで滞在するのかね?」
警部補は、明日にでも事情を聴取するつもりらしい。
「明日の夕方までになっています」
「むろん、日本語は判らないだろうね?」
「日本語は話せません。通訳の方がついていらっしゃるようですから」
「通訳がいるのかね?」
「ここに御一緒にお泊りになっていませんが、見物には、その人が付き添っているようです。この京都の人かどうか判りませんが、朝、このホテルに来ては、夕方までいらっしゃるようです」
「明日も来るだろうね?」
「見えると思います」
2022/10/30
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