~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-04)
警部補は、反対側の隣室、つまり404号室のことを訊いた。
「こちらは御婦人がお一人で泊まっていらっしゃいます」
「日本人だろうね?」
「そうです」
時計を見ると、もう、午前三時に近い。婦人客一人と聞いては、警部補も諦めなばならなかった。
「被害者は」
と警部補は言った。
「つまり吉岡さんは、昨日の夜、この部屋に入ったばかりですね?」
「そうです」
「それは飛び込みですか? それとも予約ですか?」
「予約です。二日前、東京からお電話をいただいて、リザーヴしました」
「二日前?」
警部補は首を傾けた。さきほど、当人に質問した時、家族は自分がこのホテルに泊まっていることを知らないと言っていた。それはどこに泊まるか判らないから、という意味に警部補は聞いていた。
二日前にリザーヴしたとすると、ここに宿泊することは決定していたのだ。
警部補は、被害者が家族への連絡を嫌がっていることといい、犯人に心当たりが全然ないと言っていることといい、軽い不審を起こしたようである。
「今日、病院に行って、被害者から、もっと事情を聴かねばならんな」
警部補は呟いていた。
大体の現場検証は終わった。
「指紋は、とうとう検出出来ませんでした」
窓から外の壁まで真白い粉を叩いていた鑑識係は報告した。
「なにしろ暗いので、もう一度、夜が明けてから出直してみます」
「そうしてくれ給え」
警官の一行は、部屋からやっと引き揚げることになった。
「君の方も迷惑だな」
警部補は、横に立って居る当直主任に言った。
「はあ、どうも」
主任は当惑げな顔をしている。
「こういう事故が起こりますと、ほんとうに、われわれ客商売は困ります」
「しかし、殺しではないから、まあ、いいよ。これで、この部屋が殺人現場になってみ給え。もっと困るよ」
「はい、その点は仕合せだと思っています」
主任は頭を下げた。
別の警官がベッドの横にある洋服ダンスを開けた。そこには被害者の洋服とオーバーとが吊り下がっている。
「病院に運んでやれよ」
警部補がそれを見て言った。
警官が洋服を簡単に畳んでいるところだった。
「おい、ちょっと待て」
何を見つけたのか、警部補はその手を止めさせた。
上衣うわぎの裏を警部補は手でかえしていた。そこには「村尾」とネームが入っていた。警部補は、じっとそれを見つめていたが、
「君」
と主任の方を向いた。
「この人は、宿泊人名簿では確かに吉岡さんだったな」
「はあ、そうですが」
警部補はその返辞を聞くと、上衣をまた表にかえした。複雑な眼になっていた。
2022/10/31
Next