~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-05)
「もう一度、訊くが」
警部補は、また当直主任に言った。
「この人は、このホテルに初めて来たんだね?」
「はい、初めてのお泊りでおざいます。今まで、いらしたことはございません」
「ここに泊まってから、外に電話をかけていないかね。または、外から電話がかかったことはないかね?」
「ちょっとその点は調べませんとわかりません」
「それを調べてくれ給え。こちらから掛けた先もわかるだろう?」
「はい、お客さまの電話は一々料金を請求しますので、お掛になった先の電話番号は控えてあります」
警部補はうなずいた。
「荷物はこれだけかね」
洋服ダンスの横にスーツケースが据えてあった。警部補はそれを取り出した。
スーツケースには、航空会社の荷札が下がっている。警部補は荷札を手に取った。それは「吉岡様」とあった。
警部補はチャックに手を掛けたが、これは鍵がかかっている。
「洋服を少し調べよう。君、立ち会ってくれ給え」
「はい」
主任はおとなしかった。
警部補は上衣のポケットに指を入れた。名刺入れが出た。警部補はそれを開いて、かなり分厚く入っている名刺の束を取り出した。
彼は黙ってそれを繰っていたが、また元のままにしてポケットに収めた。
「その荷物や洋服などは大事に病院に届けてあげなさい」
警部補の口調は、少し変わってきていた。
警官たちは、廊下をこっそり歩いて玄関に降りた。このころになると、さすがにほかの宿泊人も、廊下に立って様子を見物しているようなことはなかった。
ホテルとしてはあと始末が大変である。主任はボーイたちを集めて、床の絨毯の血を拭き取っていた。そのあと、ベッドを替えたり、掃除をしたり、ちょっとした騒ぎになった。
「両隣のお客さまが寝ていらっしゃるから、なるべく音のしないようにやってくれ」
主任は凶事の部屋に立って、ボーイたちを指図していた。
この時、入口から一人の人物が入って来た。背の高い男だ。宿のパジャマを着ているので客と知れたが、五十過ぎの年配で、上品な容貌をしていた。
勝手に部屋の中にのっそりと入って来た。
「君」
と呼んだのは当直主任である。
「大変な事になったね」
主任は眉をひそめた。こんな場面を客に見られたくなかったし、この夜中に野次馬根性を出されてはやりきれない。
「はあ」
うかない顔で応えると、客は勝手に話し出した。
「射たれた人は、大丈夫かね?」
「はあ、生命には別条ないようです」
不承不承に答えた。
「そりゃよかった」
初老の客は、眉を開いたようだった。
「警察が来ていたようだが、犯人の目ボシはついたかね?」
「まだなんです」
主任は、何とかしてこの客を追っ払おうと考えている。
「で、被害者は、たしか吉岡という名前だったな?」
客がそのことを知っているのは、事件直後に、この部屋の前に集まった連中の中に居たものらしい。
「そうです」
「家族との連絡はついたのかね」
よけいなことばかり訊く客だった。こちらはホテルの商売だから、露骨に邪慳じゃけんな扱いも出来なかった。
「なんですか、御本人は、御家族との連絡をお断りになったようですが」
「ふむ、事情があるんだね」
呟いた客は、前世界文化交流連盟常任理事の滝良精だった。
2022/11/01
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