~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-06)
気難しい顔をしている。眉の間に皺を立てていた。この表情は単なるもの好きではなかった。深刻に心配している。
「君」
とまた主任に言った。
「怪我人は昨夜ここに入ったと言ったね?」
「はあ」
「この部屋に入って、どこにも出なかったのかい?」
主任は嫌な顔をした。幾ら客でもこれは答える義務はないが、その初老の客の顔付は、一種の威厳めいたものを持っていた。
「別になかったと思います」
当直主任は不承不承に答える。
「客は、つまり、外からの訪問者はなかったかね?」
床を掃除しているボーイが、ちょうどこの部屋の係だった。会話を耳にして、勢いよく自分から顔を上げた。
「お客さまはなかったようですよ」
当直主任は苦い顔をして、ボーイを睨みつけた。
「そうか」
滝良精は立ったまま、ボーイたちが懸命に掃除しているのを眺めている。
「電話はどうだね?」
この質問は、たった今、警部補から受けたものと同じだった。
「それは、調べてみないとわかりません」
主任は突っ放したように言った。
「交換台に控えがあるんだね。朝にならないと、そっちの方は判らないわけだな」
滝は独り言のように呟いた。主任は、じろりとその顔を見ている。早く、この部屋から出て行ってもらいたい顔付が露骨だった。しかし、そのことが客に通じたかどうか、先方は一向に動じなかった。やはり、その場所に立ったままである。何かを懸命に考えているようなふうでもあった。
「隣の客は」
と滝は言った。
「この騒動を知っているのかね?」
主任からすると、余計な質問ばかりである。
「さあ、どうでしょうか」
と意地悪く答えた。
「何しろ、夜中ですから」
睡っているかも知れないという意味だった。
「しかし、君。これほどの騒動だ。ぼくなどはずっと離れた所に部屋を取っていたが、そrでも眼をさましたのだからね。隣が知らないわけはない。何か叱言こごとを言って来なかったかね?」
「いいえ、何も」
とすまして答えた。
「こちらは」
と一方の壁の方を顎で指している。
「フランス人夫婦だったな?」
何もかも知っている男だった。
「そうです」
「外国人は神経質だ。こういうことがあると、必ず電話で何か言う筈だが、それはあなかったかね?」
「ございません。いっこうに聞きませんでした」
「隣の人は、この騒動があっても様子を見に出て来なかったわけだね?」
「はい、それはありませんでした」
あなたのように物見高い人間はない、とやっつけたいような主任の顔だった。
2022/11/01
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