~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-07)
久美子は、睡りから醒めた。
窓はブラインドを下ろしていたが、わずかな隙間から明りが洩れている。光はカーテンの間から一部だけ見えた。
時計を見ると、六時半だった。
あれからすぐにベッドに戻って睡ったのだが、浅い睡りだった。
浅い睡りだということは、隣の部屋から人が出て行った気配を憶えている
あの騒動で廊下を戻りがけにちらりと見たのだが、隣室の客は滝良精氏にひどく似ていた。まさかと思ったが、考えてみると、滝氏がこのホテルに泊まったとしても不思議ではない。ただ、隣合せに泊まったことにあまりの偶然さを感じるだけである。
もし滝氏だったとしたら、どうして真夜中に部屋を出て行ったのであろうか。それも事件のすぐあと、彼は一度は久美子などと一緒に問題の部屋を覗いている。ほかの客が部屋に引き取ったあとも、彼はまた自室から出て行ったのである。よほど、あの事件に興味を持っているらしい。
ここで、久美子は、はっとなった。
それが滝氏だったら、不思議ではないのだ。被害者が吉岡という人ではなく、村尾芳生氏だったとしたら、滝氏とは特別な間柄ではないか。滝氏が心配をして部屋に落ち着けなかったのも道理である。
すると、あの事故の部屋のあるじは、ますます村尾芳生氏になってくる。いや、もう間違いないような気がした。
村尾氏は、なぜ、吉岡と名乗ったのであろうか。そのことは前にも考えたが、この事故が起こってみると、偽名と事故とが密接な関係でつながっているような気がする。偽名を名乗ったことが、いわばあの事故を予想したようにも取れるのである。
久美子は、手早くパジャマを脱いで、スーツに着替えた。
隣の部屋は、しんと静まっている。耳を澄ませたが、かすかな物音もしない。
彼女はブラインドを上げて、窓を一ぱいに開いた。朝の冷たい、新しい空気が部屋になだれ込んで来た。
京都の朝がそこにあった。東山の裾が墨絵の様にぼけている。朝靄あさもやの中から、寺の屋根や森が裾をぼかして黒い頭だけをのぞかせていた。戦車通りには歩いている人が少なかった。自動車くるまも通っていない。電車も走っていなかった。この掛軸かけじくの中にはめたような美しい景色とは別に、このホテルでは異常なことが起こったのだ。
久美子は、朝のコーヒーをって気分を落ち着かせたかった。しかし、六時半ではまだ早過ぎる。食堂の開始は八時前ごろからであろう。
ドアの隙間に新聞のはしがのぞいていた。彼女は、それを取って開いた。変わった記事はなかった。政治面も、社会面も、この窓際の景色のように平和な活字だった。
不意に電話のベルが鳴った。
時が時だったので、久美子は電気に打たれたようになった。昨夜も電話が鳴った。直感だが、ベルの鳴り方というか聞こえ方で、同じ電話のような気がした。ベルはまだ鳴っている。
隣に寝ている人のことを考えて、久美子は受話器の方へ歩いた。とにかく、音を止めるために受話器だけは外したが、まだ耳には当てなかった。このためらいは五、六秒もつづいた。
決心して耳につけたが、すぐに声が出ない。
「もしもし」
低い声だった。まさに昨夜聞いた同じ声である。嗄れた年寄の声だった。
「はい」
久美子は返辞をした。
「もしもし」
もう一度向うは呼んでいた。
「はい」
久美子は、少し高い声を出した。かえってそれで気が落ち着いた。
すると、今度は向うが沈黙した。声を出さないのである。それが十五、六秒もうづいただろうか。彼女がこちらから何か言おうとした時、電話の切れる音がした。
昨夜と全く同じ電話だった。
久美子は受話器を置いた。昨夜と違うのは、外から明るい陽が部屋に射し込んでいることである。しかし、電話から受け取る気味の悪い印象は同じだった。
昨夜は二度、今朝は一度、同じことが三度つづいた。先方は三度とも電話を間違たのだろうか。外からかかって来る電話でないことは確かだった。
2022/11/02
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