~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-08)
久美子は、頭を振った。真夜中の事故があって、気分も落ち着かなかった。散歩するつもりで部屋を出た。鍵も入念に掛けた。
ホテルの玄関では寒そうにボーイが立って居た。
「お早うこざいます」
フロントの前で、ボーイが久美子を見送った。
久美子は、ホテルの前の坂を下りて、電車通りに出た。自分の部屋の窓から見下ろしているのと、まるで感じが違う。眼の前を、大津行きの電車が少ない乗客を乗せて走り過ぎた。
電車通りを渡って、インクラインのあとにある蹴上けあげのゆるい勾配を下りて行った。この辺は林が多い。まだ東山の山間やまあいに霧がねばり付いていた。
久美子は、そこから引き返して電車通りに戻った。それに沿って坂を上ると、家が跡切とぎ れてくる。山科やましなの方角に、なだらな山があった。
しばらく歩いた。人はあまり歩いていない。野菜を積んだトラックが行き過ぎた。
久美子は、東京の家のことを考えた。今ごろは、母が食事の支度をしているころかも知れない。
散歩は三十分ぐらいかかった。また電車通りを元の方に引き返した。ホテルの建物が高い所に見える。裏の木立に囲まれた静かな環境だ。ここで昨夜の騒動があったとは、誰が想像するだろう。美しい景色の中に、穏やかに睡っているような建物だった。
女学生が四、五人、鞄を下げて歩いていたが、優しい京なまりだった。
久美子は、ホテルに前を上った。ゆるい坂になっていて、自動車で行くと、そのまま玄関の車寄せに着くようになっている。
久美子が玄関の見える所まで歩いて来ると、自動車が一台、恰度動き出すところだった。立派な外車である。ホテルの従業員たちが四、五人で見送っていた。滞在客が出発するらしい。
久美子は、玄関に入ろうとして、何気なく窓を見た。窓には外国婦人の顔があった。久美子が立ち停まったのは、その婦人が苔寺で見たフランス人だったからだ。特徴のある髪の色と横顔に間違いはなかった。
しかし、そのとき、車はもう動き出していた。先方では、久美子がそこに歩いて来たことに気づかぬらしい、車のうしろが反対の坂をすべり下りていた。
このとき、はじめて知ったのだが、うしろの窓に、そのフランス人と並んだ男の影が、頭だけを見せていた。
久美子は、昨夜、食事に招待されたことを思い出し、その人がフランス婦人の夫だと知った。南禅寺の縁に腰を下ろして、石組をっと見つめていた東洋風の人だった。
あのフランス人夫婦は早い出発だった。
もちろん、それは最初からの予定かも知れないが、久美子にはフランス人夫婦の出発が、真夜中の事件に影響されているように思える。
あの騒動の時、フランス人夫婦は事故の部屋の隣室に居た。真夜中にピストルが鳴り、誰か射たれた。異郷の旅を続けている異国人にとっては、相当な衝撃だったことはいうまでもない。急に予定を変えて出発したと解釈しても不自然ではないようである。
久美子は部屋に帰って、オートミールを頼んだ。
射たれた人がもし村尾氏だったらと容態が気にかかった。今朝、ホテルが静まりかえっているところをみると、怪我人は病院に運ばれたに違いない。窓越しにピストルを射つ。普通ではなかった。それに村尾氏が「吉岡」と名乗っていることと思い合わせると、平静でいられなかった。
父のかつての部下だし、他人ひとごとではない。できたら、病院にお見舞いをしたいくらいだ。が、何と言っても、氏が偽名を名乗っていることがそれをはばむ。
ドアにノックが聞こえた。
「お発ちでございますか?」
白服のボーイが現れた。
「ありがとうございます」
銀盆に伝票を載せて差し出した。
「昨夜は大変でしたね?」
彼女は言った。
「はあ」
ボーイは頭を下げていた。
「ご迷惑をかけました」
「いいえ、でも怪我人はどうなんですか?」
「はい、真夜中に救急車が来まして、病院の方にお移し致しました」
「怪我はどうなの?」
「よろしいように聞いておりますが」
「よかったわ」
彼女は吐息といきをついた。
「お名前は何とおっしゃいますの?」
これは、もう一度、確かめたいのだ。
「吉岡様とおっしゃいます」
やはり、その名前だった。
「加害者は、わかりましたの?」
「いいえ」
ボーイは、まだ二十歳はたちくらいで若い頬をしていた。
「窓の外から、ピストルを射ったんですか?」
「はい、なんでも、裏山の方から来たのではないかと、警察の方ではいっています。いま、改めて調べていらっしゃいますが、どうやら、一人ではないようです」
「え、一人ではないんですって?」
「はい、足跡が二人以上だといっしゃっております」
ボーイも、この事件に興味を持っている。だから、久美子の質問に乗り気で返事をしていた。
2022/11/03
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