~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (16-09)
「ところが、お嬢さま。警察の方が変な発見をなさったんせすよ」
と彼女の方に背をかがめて言った。
「変な発見ですって?」
「はい、窓際に紙片かみきれが落ちていたそうです。警察の方は、射った窓の割れ口から、それを中に入れるつもりだったのが、何かの拍子にそこに落ちた、というふうに考えておられるようですが」
「まあ、その紙片には、何か書いてありましたの?」
「はい。裏切者、とあったそうです」
「裏切者?」
久美子は、呼吸いきを詰めた。
村尾芳生が裏切者というのだろうか。
「なんでも、鉛筆で走り書きしてあったそうでございます・・・けれども、警察ではまだ、犯人がそれを書いたのか、それとも、誰かのいたずら書きがそこに落ちていたのか、判断しかねているそうでござうます」
「そう」
話は、それで切れた。久美子は、銀盆の上にお金を載せた。久美子が椅子から起ち上がると、ボーイが彼女のスーツケースを持って出て行った。
忘れ物はないかと、部屋の中を見渡した。眼が卓上の電話機に止まった。
昨夜から今朝まで三回鳴った電話である。対手の正体は知れない。しゃがれた男の声だったということが、短い言葉の中で聞き取れた。わざとしたのか、それとも、間違えた電話なのか、わからなかった。が、三度も同じ電話が同じ調子でかかったことはやはりただごとではなかった。
久美子はボーイが出てから二分ぐらいあと、泊まった部屋をあとに廊下に出た。
歩きながら、ふと、隣の部屋を見ると、ドアが開いていた。自分の泊まった部屋と同じように、その部屋もの絨毯が敷き詰めてある。音が鳴っていた。エプロンを掛けたメイドが、その緋絨毯の上に電気掃除機を動かしていた。
久美子は立ち停まった。
入口に近づいて、中をのぞくようにした。メイドが部屋を掃除しているのだから、泊り客は留守のようだった。
食堂に降りたのかも知れない。
電気掃除機を押していたメイドは、久美子がそこに立ち停まったものだから、顔を上げた。
「ちっと伺いますけど」
彼女は声をかけた。
「この部屋のお客さまは、いま、お留守なんですか?」
もし、滝良精氏だったら、何はともあれ、挨拶だけはしたいと思った。
女の子は首を振った。
「お客さまはお発ちでございます」
あっと叫ぶところだった。
「いつ?」
「はい。一時間前でございます」
一時間前だというと、久美子がまだ電車通りを散歩しているときだ。
そんなに早く発つとは思いもよらなかった。
「あの、こちらのお客さまは、お名前は何とおっしゃいましたの? 私の知っている方かも分かりませんの」
メイドは二人居たが、互いに顔を見合わせていた。
「たしか・・・川田かわださんとおっしゃいましたが」
「川田さん?」
名前が違っている。しかし、人違いとは思わなかった。村尾芳生氏の例もある。瞬間に偽名だとさとった。
しかし、まぜ、村尾氏も、滝氏も、偽名を名乗ってこのホテルに来たのだろうか。
隣室の滝氏は、昨夜の事件に異常な素振りを見せていた。その人があわただしきう早朝に発ったのである。なぜだろう。───
2022/11/04
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