~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-01)
所轄署の捜査課長が病室に入った時、怪我人はベッドの中から顔を少しこちらに向けていた。血色はいい。しかし、見た瞬間の感じでは、苦痛よりも当惑げな表情だった。
こちらは課長だけでなく、主任警部補と刑事の三人だった。
陽当たりのいい病室だ。窓からの陽がベッドの半分を区切って当てっていた。
看護婦が怪我人の枕元の前に椅子を持って来た。
「やあ、御気分はいかがですか?」
捜査課長は、いま、医者から容態を訊き、質問をしても差支えないことを確かめてから入って来たのである。毛布の下から繃帯っほうたいを巻いた、白い、厚い肩がのぞいていた。
「有難う」
怪我人は礼を言った。髪が乱れている。そのせいか、うすくなった頭の地肌が露出していた。
「大変な目に遭いましたね」
「ええ」
負傷者は微笑した。しかし、相変わらず当惑げである。瞳も安定いていなかった。主任たちは、課長から離れた所に椅子を持ち出していた。
主任が看護婦にそっと耳打ちした。看護婦はうなずいて、ドアの外に消えた。
「お痛みになるでしょう」
課長は同情した。
うしろにいる主任警部補は、被害者とは面識があ。Mホテルの現場に逸早いちはやく駆けつけて事情を聴いた男だった。
「吉岡さん」
主任は、この病床訊問者を、被害者に捜査課長だと紹介した。怪我人にはそれがわかっているとみえて、うなずいた。
「ご容態は、ここの院長から聞きましたが、軽くて結構でした」
「いろいろ、御心配をかけました」
枕につけたまま、頭を下げるように動かした。
「吉岡さん・・・とお呼びしたいのですが、本当のお名前は、われわれも承知しているのですよ」
決して強い言葉ではなかった。課長の表情も微笑わらっているし、言葉も柔和なのである。
覚悟はしていたようだが、村尾芳生の顔が少し白くなった。
当人が黙っているので、主任が横から口を入れた。
「いいえ、ホテルでお話しを聴いた時、いろいろと御住所などを調べさしていただいたんです。すると、お答の東京の番地には、吉岡商会というのも、吉岡さんというのも、居住していないことが判りました」
「・・・・・」
「失礼ですが、お洋服のポケットから、名刺を拝見しました」
村尾芳生は諦めたような表情だった。課長一行に向けた顔の位置を少し変えて、仰向けとなった。訊問者から見ると、その横顔だけが正面となる。
「村尾さんの・・・」
課長は言った。
当人は、もう覚悟をつけていただろうが、秘匿ひとくしている本名を呼ばれて、まぶたが神経質にふるえた。
2022/11/05
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