~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-02)
「今度の御旅行は、個人的は御用ですか?」
課長の態度が丁寧なのは、むろん、被害者が外務省の中堅官僚と知ったからである。
「・・・・そうです。私的なものです」
村尾芳生は低い声で答えた。
「大変失礼なことをお訊ねすることになりますが、事態がこういうことになっていますので、やむを得ないと御了承願いたいんです」
「わかりました」
「個人的な御旅行の目的について、お答をいただきたいのですが、もし、お差支えだったら、無理にとは申し上げません」
「その点は、お答を勘弁して頂きたいんです」
村尾芳生ははっきりと言った。
「わかりました。大へんぶしつけですが、ホテルに別の名前で部屋をお取になったのも、その私用上の御都合ですか」
「そう解釈していただいて結構です」
「犯人は」
と、課長は横に居る主任警部補から書類を貰ってつづけた。
「Mホテルの裏から南に向って、山伝いに遁げたようせす。御承知のように、あれからずっと南に行きますと、知恩院の方に参ります。われわれで、翌朝捜査しますと、Mホテルの裏庭についていた靴跡が、知恩院の裏まで続いていました。もっとも、ずっとではなく、ところどころで発見されたのですがね」
村尾郷生は反応を示さないで聞いていた。
「ピストルの弾丸を、あなたが泊っていらした部屋の壁から取り出しました。アメリカ製のものです。ピストルも、コルトと判りました」
「・・・」
「窓越しにあなたを狙撃そげきした犯人は、あなたが椅子から床にたおれたのを見て、目的を達した者と思って遁げたようです。この加害者について、あなたに心当たりはありませんか?

「ありません」
答えは即座だった。
「なるほど、しかし、犯人は物盗りとも思えません。われわれの推定によると、こういうやり方は怨恨関係に多いのです。いや、それが特徴だと言ってもいいでしょう。d、これは、村尾さんにきっとお心当たりがあるんじゃないかと思いましたが」
「ありませんね」
こちらがむっとするくらい、返辞はニベもなかった。
「私用の件に関連しますが」
課長はつづけた。
「内容は承らなくても結構です。ただ、今度のご旅行の目的と、兇行とが、間接的にでも関連があるのかどうか、それをお訊ねしたいのですが」
「全然、関係はありません」
課長と主任とは顔を見合わせた。被害者の村尾芳生は、明らかに訊問を拒否している。少なくとも、彼は何事かをかくしている。これが警察側の印象だった。
対手は、外務省欧亜局××課長だ。その身分に対してだけでなく、捜査課長が遠慮したのは、外務省という役所の持つ仕事上の機密性だった。
村尾氏は、徹頭徹尾、この旅行が私用だと答えている。狙撃事件は無関係だと称し、犯人に心当たりはないと、主張している。
課長が感じたのは、公的な立場にある人間が、しばしば、真実を匿さなければならない局面に身を置いている場合だった。
「村尾さん」
捜査課長は丁寧に言った。
「客観的に申し上げて、ここに、一つの傷害事件が起こったのですよ。しかも、凶器はピストルでした。われわれとしては、職務上、捜査をやらねばなりません。加害者も発見して逮捕せねばなりません。被害者は村尾さんです。事件が起こって、加害者と、被害者とが発生した。加害者の不明な目下の段階では、われわれとしては、被害者に事情を聴くほかはないのです」
村尾芳生は唇を曲げた。
「お差支えない程度で、御協力を願いたいのですが」
「弱りましたね」
と言うのが村井芳生の返辞だった。
「まったく、何のために射たれたのか、わたし自身が判らないのです。いろいろお訊きになっても、この御返事以外に申し上げようがありません。あなたの方で犯人を逮捕していただいて、当人を訊問し、真相が判って、わたしに聞かして下さったら、ああ、そうかと、はじめて合点することになるだろうというのがいまのわたしなんです」
警察側は全面的に拒否に遇った。
「わかりました、では、お話しを伺うのはやめます」
課長は柔和な笑顔を泛べたが、これは、一応休戦の会釈だった。
「本省の方に連絡いたしましょうか?」
「いいえ、それには及びません」
「御家族の方は?」
「どうぞ、おかまいなく。絶対の家内には知らしていただいてはいけないのです。それだけは困ります」
村尾芳生ははじめて悲観的な眼になった。
「ははあ、すると、京都にいらしたのがこっそりした御旅行だったので、それが判ると、御迷惑という意味ですか?」
村尾芳生に返辞はなかった。
2022/11/06
Next