~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-03)
課長が引き揚げてから、病室は二十分ばかり静かになった。陽あしが動いて怪我人の顔に光が当たった。看護婦がカーテンを閉めようとすると、病人はそれをめた。窓から見えている景色が隠れるというのだ。
窓には京都の屋根が横にひろがっている。その中に東寺の五重の塔がそびえていた。
村尾芳生は顔を曲げて窓の景色を見ている。表面、無心そうな顔つきだったが、眼に焦躁の色があらわれていた。
看護婦を呼んだ。
「今日は無理としても、明日の朝なら帰れるかね? いや、無茶だと承知していることだがね」
患者がこの質問をしたのは三度目である。看護婦は困っている。院長は初めから患者の頼みに非妥協的だった。
普通の人ではなく、外務省の地位のある役人と判っていた。当人が帰京したがっているのは、役所の用事が気になるからであろう。だが、とても二、三日の間に動かせる体ではなかった。
本人は寝ていて冷静な時と、ひどくあせりをみせるときがある。──
このとき、怪我人に新しい面会人があった。受付で、絶対面会謝絶と断わったのだが、客は強情にねばっていた。
背の高い、半分白い髪の紳士だった。もの柔らかな態度だったが、執拗しつようなくらい入院患者への面会を言い張った。
看護婦たちでは手に合わず。名刺を差し出したので、院長が引き出される始末となった。名刺には、「世界文化交流連盟理事 滝良精」とあった。
「五分間でいいんですがね」
滝良精は院長に言った。
「当人は、ぼくと親友なんです。ぜひ、話をしたいことがあります」
「弱りましたな」
院長は迷っていた。
「いや、同じホテルに泊まりましてな。あの騒動を夜中に知りましたよ。射たれた人間が、村尾君とは知りませんでした。あとで聞いてびっくりして、ここにかけつけたのです」
滝は微笑をたたえて言ったが、その柔かい身体に感じられる経歴キャリアの貫禄といったものが院長を圧迫していた。
「それが村尾君とわかったのも、実は警察の人に聞いたからですよ。永い時間ではありません。五分間だけ会って帰りたいんです」
院長は謝絶の意志を放棄した。
2022/11/06
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