~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-04)
「よう」
滝良精は病室のドアを静かに閉めると、寝台の方にゆっくり歩いた。
村尾芳生は寝ているその位置から眼でそれを迎えた。愕きはなかった。当然来る人間が来たという表情だった。
看護婦が、捜査課長に出したように椅子を見舞客のために据えた。
「ひどい目に遭ったな。容態は院長から聞いたが」
滝良精は腰を下ろした。
「気分はいいのか? 顔色は悪くないが」
病人はちらりと看護婦に眼を投げた。
「すぐ失礼するがね。看護婦さん」
と客も彼女を呼んだ。
「少し、はずしていただけますか? 五分間、いや、七分間で済みます」
看護婦は病人の毛布を直して、部屋を出て行った。
「煙草はってもいいかい?」
「構わない。灰皿がないが、その辺に何かあるだろう?」
滝良精は、銀のシガレットケースを開いて、一本抜いた。蒼い煙が陽射しと影の部分を縫って昇った。
「おどろいた」
と看護婦を追い払って言ったのが見舞人だった。
「着いたその晩だろう、この騒ぎが。まさか、と思った」
病人の顔を差しのぞいて、
「しかし、大事にならずにすんでよかった。君の顔を見るまでは安心できなかったが。これで、心が落ち着いたよ」
村尾芳生は、かすかに首を動かした。肩は板のように不自由にベッドに付けたままである。
「会えたのか?」
滝良精は、覗くようにして低い声で訊ねた。
「会えない。連絡は電話で取れたのだがね。君は?」
「ホテルに着いたのは、夜中だった。汽車の都合で、そうなったのでね」
「東京に居なかったんだって?」
「ああ、信州の山の中に一週間ほど居た。報せを貰って、すぐ、中央線に乗ったのだが、あの汽車はのろい、それに名古屋からの連絡も悪かった」
「あちらは、どうしてる?」
村尾芳生は、滝の顔を下から見上げた。
「すぐ発ったようだ」
村尾はうなずいた。
「どちらへ?」
「判らない」
「じゃ、置いて行ったのかな?」
「誰のことだ?」
「娘さ、娘を呼んでいたんだ」
「え、どこに?」
「南禅寺でう約束になっていたそうだ。女名前で誘ったのだがね。先方では、その手紙を見てこちらへやって来たんだ」
「で、対面したのか?」
滝良精は、息を呑むようにして村尾の顔を横から見つめた。
「出来なかったそうだ。これは電話で当人から事情を聞いたのだがね」
村尾は眼をつむって言った。
「なんでも、刑事らしいのが背後うしろでうろついていたので、止めたんだそうだ」
「ほう」
「先方は当人の身辺を心配して付けたんだろうがね。無理もないが、それがいけなかったのだ。すっかりこちらに警戒心を起させたんだ」
「それきりかい?」
「そうじゃない。偶然だが、Mホテルに泊まっていたんだそうだ」
「えっ、そのがかい?」
滝良精は眼をむいた。
「おどろいた。じゃ、君・・・」
「そうなんだ。ぼくが射たれたことも知っている筈だ。もちろん、名前を違えていたから、ぼくとは気がつくまいが」
「どこの部屋だろう?」
「これも電話でマダムから聞いたんだが、325号室だそうだ」
「そりゃ、おれの泊まった部屋の隣じゃないか」
滝良精は叫んだ。
「えっ、君の?」
村尾芳生の顔も、友人の驚愕にならった。
「そいつは知らなかった。君の隣室にね」
沈黙が二人の間にしばらく落ちた。
やさしい屋根を海のように並べた京都の窓に、飛行機が翼の一部を光らせて舞っている。
2022/11/06
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