~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-05)
添田彰一は、新聞社で京都版を気をつけて見ていた。
京都版は、大阪本社の管内である。だから、その新聞が東京に着くのは一日遅れてからだった。久美子が京都に出発して以来、添田は、その京都版に気をつけていた。事故を予想したというのではなく、事故がないことを祈りたい気持からだった。
久美子の京都行は、僅か二日ばかりで、その間に事故を考えるのも大げさだと思うが、その記事を探す気持ちが起きるほど、彼は久美子の身辺に不安を感じていた。
十一月一日付の紙面には何のこともなかった。彼としては大きな事件を期待しているのではない。だから、地方版を探していたのである。
翌日になって、次の新聞が到着した。大阪本社から送付してくる新聞は、管内の各地方版が全部揃っている。京都版はしの一つだったが、二日付の紙面にも何の変化もなかった。添田は安心した。しかし、彼の眼は本紙の社会面にふと落ちて、ぎょっとなった。三段抜きで、次のような見出しが出ている。
「Mホテルでピストル騒ぎ、投宿者一名が射たれる ──」
記事を読むと、久美子とは関係のないことだった。
Mホテルに泊まっていた吉岡という、どこかの会社の社長が、真夜中に、居室でピストルで射たれたというのである。犯人は四階の窓から室内を狙ってピストルを発射し、吉岡という人を傷つけて逃走した。被害者は肩胛骨のあたりに銃創を受けただけで、生命に別条はない。所轄署で捜査をしたところ、Mホテルの裏から山伝いに知恩院方面へ遁げたらしい犯人の足跡を発見した。目下、犯人を厳探中である。というのだった。
Mホテルと言えば、京都第一の観光ホテルだった。京都に来るほとんどの外人が、この宿に泊まる。添田も、泊まったことはないが、その建物は見て知っている。蹴上けあげの高台の木立の中に、風雅な洋風造りでそびえていた。
記事が大きいので、京都版には載せず、本紙に掲載したのである。凶器がピストルというので、警察でも重大視し、紙面も重要な場所に大きくいたものと思われる。
久美子が京都に」行っている間の現地での変化といえば、これだけだった。もちろん、久美子と関係はない。
しかし、添田は、いったん新聞を閉じたものの、それなりに忘れることが出来なかった。何か心に引っかかって来る。
これは久美子のことを考えて、少し自分が神経過敏になっているのかと思った。もちろん、京都だっていろいろな事件が起こる。これがことごとく、久美子に因縁があるとは思われない。このMホテルのショッキングな事件に対しても、彼女がその周辺に居たとは思われない。
久美子の母親の話では、彼女には警視庁の刑事が特に付き添って行ったという。Mホテルなどに彼女が泊まっているとは、考えられなかった。刑事も警戒に付き添っていたことだし、身辺は安全なのである。泊まった旅館も、そのような豪華なホテルではなく、京都らしい日本旅館を択んだに違いない。
こういうことを一応分析して自分自身に言い聞かせたが、どうも心残りがしてならない。
なぜか。
2022/11/06
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