~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (17-06)
添田には、羽田空港から伊丹行きの飛行機に乗った、村尾芳生氏のうしろ姿が記憶に残っている。それだけだったら、このように気にすることはないが、村尾氏が到着した日が、恰度、久美子の滞在の日である。氏は外務省の役人だし、課長という中堅官僚の身分からいって、Mホテルに泊まる可能性が多い。
村尾氏が飛行機で到着した所は伊丹で、それから先、彼が京都に来たのか、大阪に行ったのか、それとも神戸に向ったかは判らない。だが、村尾芳生氏と久美子の父親の関係、同氏の伊丹着と久美子の京都滞在の日付の符合、そしてMホテルのピストル狙撃事件の日付、・・・こういう線がお互いに繋がり合い、牽引けんいんし合っている。
新聞には、被害者の吉岡正雄という人の住所が載っていた。港区二本榎二の四で、吉岡商会というのを経営している。
添田は、社からすぐ車を出した。新聞に書かれた住所番地を訪ねたのだが、同番地には全然違う人が住んでいた。
そこは自転車屋になっているが、訊いてみると、二十年も前からそこに住みついているのだった。近所にも吉岡商会というのはなく、吉岡正雄という人が住んでいるということも聞かない、と答えた。これは添田が半分は予期したことだった。彼はすぐに社に帰った。
添田は大阪本社に電話した。
本社の社会部に知った人間が居る。その友人は、幸いデスクだった。
新聞社の電話は直通だから、すぐに出た。
「よう、しばらく。元気かね?」
友人は、突然、添田から電話がかかったものだから、かなりびっくりしているようだった。部署が違うので、日ごろからの連絡もなかったのだ。
「面倒なことを頼みたいが」
添田は手短にホテルの事を読んだことを話し、
「こちら同番地には、吉岡正雄という人は居ないんだよ。吉岡商会というのもない。そこで、警察の方のこの発表が間違っているんじゃないかと思うんだが、ひとつ、訊き合わせてもらえないか?」
「どういうことだね? 君に関係があるのかね?」
「ああ、少し気がかりな点がある」
「そうか。じゃ、すぐ、京都支局の方へ電話して、担当者に訊いてみよう」
「いや、訊くだけではなく、被害者が偽名を使ってるんじゃないかとぼくは思っている。だから、警察にもその点を問いただしてもらいたいんだ」
「なんだか面白そうだな。君に心当たりがあれば聞かせてくれ」
、「いや、それはない。だが、いま言ったように、ちょっと心配な点もあるんだ。詳しいことは、いずれ落ち着いてから話すがね」
「そうか。とにかく、やってみよう」
電話は切れた。
その大阪からの電話が再びかかって来るまでに、三時間ぐらい間があった。
「やっと、担当者と連絡がついたよ」
と大阪の電話は言った。
「訊いてみると、あれは所轄署の発表どおりに書いたんだそうだ。そこで、君の言ったことを伝えて、所轄署に被害者が偽名を名乗っているのではないかという点を確かめるようにさせた。すると、京都からの返事だがね。やることはやったそうだ。しかし、やはり警察では吉岡正雄という人間に間違いないということだった」
「しかしその住所番地には、吉岡という人は居ないんだぜ」
「ああ。その点も言っておいたよ。すると、警察では、そんな筈はないと言うだけだったそうだ」
「おかしいな」
添田は、京都支局が案外熱しになっていないことを覚った。自分のところで興味を起こしている事件なら、どこまでも追って行くだろうが、東京本社から一個人の考えで依頼されても、気乗りはしないものとみえる。
添田は、直接に京都支局の人間と繋がりがあるのだったら、もっとこちらから強力に言えるのだったが、日ごろから縁もないことだし、考え方も違うので、こに不満足な返事で諦めねばならなかった。
2022/11/08
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