~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-01)
<添田彰一は野上家に電話をした。
「あ、今日は、先日はどうも」
電話口に出たのは、久美子の母だった。
「おそくまで失礼いたしました。久美子さんはまだお帰りにいませんか」
「はい。いまそれをご報告しようと思っていたところです」
母の孝子は、いつもより早口だった。
「久美子は帰って参りましたよ」
「え、お帰りになったんですか。いつです」
添田は、久美子が帰ったなら、当然自分に電話があるものと思っていた。
「昨夜、東京に着きまして、今朝も一時間前までは、疲れたといってやすんでいましたの」
「そうですか」
久美子は無事だったのだ。今度は、京都に行った用事がどうなったか知りたかった。
「あの手紙の方には、とうとう会えなかったそうです。南禅寺で三時間ばかりお待ちしたそうですが、とうとう、お会い出来なかったと言っていました」
「へえ。それは、わざわざいらして残念でしたね」
添田が、久美子に電話口に出てもらおうと思っていると、それを察したように孝子が言った。
「久美子は、いま節子のところに行っています。添田さんにお電話しませんでしたかしら?」
「いいえ」
「どうしたんでしょうね。久美子が節子のところに行く途中にでも、添田さんにお電話を差上げるものとばかり、思っていましたわ」
「お元気ですか、久美子さんは?」
「ええ」
この、ええ、と言った孝子の返辞が曖昧あいまいだったし、躊躇ちゅうちょが感じられた。
「無事には帰って来てくれましたが、少し、様子がおかしいんですの」
添田は、すぐ新聞記事を思い泛べた。
「どう、おかしいんですか」
「いえ、別に、そう心配することもないと思いますが、何ですか、久美子の様子が沈んでいるんです。元気がないみたいですわ」
「疲れていらっしゃるんでしょう?」
添田は、一応、挨拶としてそう言った。
「わたくしも、そうだと思いますわ。でも、東京を出発した時とはまるで違って、しょんぼりとしているんです」
「先方に会えなかったからではないでしょうか。何しろ、わざわざいらしたんですからね」
「そうかも知れませんね」
「久美子さんと一緒だった警視庁の人は、どうなんです?」
「ああ、そのことはお話ししませんでしたわね」
孝子は気づいたように言った。
「久美子に付き添って頂いた鈴木さんが京都から電話をかけて下さいましてね。京都に着いた翌日の午後でした。急に久美子が勝手に宿を出たという報告でした」
「へえ、、それはおどろきましたね。久子さんにそういうところがあったのかな」
「わたくしも、びっくりしました。鈴木さんも責任上、とても心配していらしたんです。すると、その晩に、久美子から直接電話がありましてね。いまMホテルに泊まっている、と連絡して来たんです」
「なに、Mホテル?」
2022/11/08
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