~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-02)
添田は飛び上がりそうになった。その日といい、場所といい、ピストル事件の現場に久美子が存在しているではないか
久美子が元気を失くして京都から帰って来たのも、その事件に原因があるのではなかろうか。いや、それは、あり得ることなのだ。彼女はショックを受けたのだ。
「ぼくは」
と添田は言った。
「夕方、そちらに伺いますよ。久美子さんも、それまでには帰っていらっしゃるんでしょう?」
「はい、帰って来ると思います。こちらから、節子の家に電話しておきますわ」
「そうですか。ぼくの方は、多分、六時ぐらいになるでしょう」
添田は受話器を置いて、何となく興奮を鎮めるために、ポケットから煙草を取り出した。すると、煙草をくわた直後に、添田も心に泛んだものがある。
それは、蓼科で遇った滝良精氏のことだった。滝氏はまだあの高原に居るのだろうか。
晩秋の蓼科の小径を歩いている滝氏の姿が、添田にはまた闡明に残っていた。彼とならんで聞かせた、その含みのある言葉も一緒にである。
添田は手帳を見て、滝氏の自宅に電話をした。電話口の出たのは奥さんらしかったが、
「主人は、まだ戻っておりません。さあ、いつ帰るやら、今のところ、予定がわからないんでございますよ」
こちらは添田の名前を出さずに、ただ新聞社名だけを言ったのである。
添田は、次に、至急報で蓼科の旅館に電話を申し込ませた。多分、一時間ぐらいはかかるであろう。こうして時間を消してるうちに、久美子のところに行くのに恰度よくなる。
添田は、今日のうちに片付ける仕事に精を出した。だから時間の経過がわからないくらいだった。
蓼科が出た。
「そちらに・・・」
と言いかけて、そうだ、滝氏は偽名で泊まっていた、と気づき、急いで手帳を繰った。
偽名が見つかった。
「山城さんは、まだ泊まっていらっしゃいますか?」
「はあ、山城静一さんでございますか」
宿の女中らしかった。
「山城さんなら、二日前にお発ちになりました」
「二日前?」
「はい、朝早くでございます」
「どちらへ行ったかわかりませんか?」
「はあ、そては伺っておりませんが」
「ぼくは、いつぞや、東京からお訪ねした者ですが」
「あ」
女中は、この言葉で思い出したらしかった。
「失礼しました」
「その後、山城さんに面会人がありましたか?」
「はい、恰度、あなたさまがお帰りになって、すぐあでございます。東京からと言って、三人連れの方がお見えになりました」
「・・・・」
添田は、蓼科から茅野ちの駅に下るバスの中ですれ違った自動車のことを思い出した。車の中には、たしか三人の男が乗っていた。
滝良精は二日前に高原を下ったという。しかも、東京には帰ってない。二日前といえば、もし、彼が京都に行ったと仮定すれば、Mホテルのピストル事件の夜に間に合うではないか。
2022/11/09
Next