~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-03)
添田彰一が遅くなって、杉並の野上家を訪ねると、玄関のガラス戸に映ったのが、久美子の影だった。
「今晩は」
添田は逆光の中に暗い久美子の顔に言った。
「いらっしゃい。お電話いただいたそうですが、留守をしていて失礼しました」
久美子はおじぎをした。
「京都は、いかがでした?」
「ええ」
頬に明りを受けた久美子は曖昧に微笑ほほえんでいた。
添田は座敷に上った。
孝子が手をふきながら出て来た。
「いらっしゃいませ」
「今晩は、夜分に伺って済みません」
「いいえ、昼間、お電話頂いたものだから、もうお見えになると思ってお待ちしてたんですよ」
久美子の姿は戻って来ず、台所で茶の支度でもしているらしかった。
「久美子さん、少しはお元気になりましたか?」
添田はそっと孝子に訊いた。
「ええ、京都から帰って来た時ほどではありませんが、やはり、出発前のような元気は取り戻せないようです」
「そのうち元気になられるでしょう」
添田は慰めた。
「そのことで、実は伺ったんですが、これはお母さまにあらかじめお願いしたいんです」
添田はやはり低い声で言った。
「なんdすか?」
「少し、久美子さんに訊きたいことがあるんです。お母さまの前では、久美子さんもはっきりとお答えできない事情もあるように思います。いや、別に悪いことでお母さまに言えないという意味でなく、別な理由があるように思われます」
「・・・・」
「それで、ぼくはすぐここをおいとましますが、その辺を久美子さんとご一緒に歩きたいのです。そのお願いですが」
「わかりました」
孝子はうなずいた。
「どうぞ、れて行って下さい。添田さんから話しをしていただくと、あの子も元に戻ってくるかもわかりませんわ」
「いや、そんな」
添田は頬をあからめた。
「ぼくは、ただ久美子さんが京都でどんなことがあったかをいろいろと聞いてみたいのです。これは、ぼくなりに、一つの考えを持っていますから」
「そうですか、わかりました」
しかし、それは添田の口実だった。話しは孝子の前では言えないのである。
「済みません」
久美子が紅茶を持って入って来た。
「何もございませんが。添田さんがいらっしゃると思ってその辺からケーキを取っておきましたが、田舎ですから、おいしくありませんわ」
「ほう、それはご馳走ですな。久美子さんは、京都はどちらに行きましたか?」
添田は明るい声で訊いた。久美子は少し眼を伏せたが、
「お寺を見て参りましたの」
「寺はどちらです?」
「南禅寺から苔寺の方ですわ」
「それはいいことをしましたね。今ごろの京都はいいでしょう?」
「ええ」
子久美は言葉少なかった。孝子は茶碗を手に持っていた。
「突然出発されたので、ぼくはびっくりしましたよ」
添田は笑いながら言った。
「でも、京都と伺って安心しました。やっぱり、京都の古い寺はひとりで見るもんですね」
「ええ」
久美子は短い返辞しかしなかった。
「ぼくも、駅からここに来る途中見たんですが、今ごろこの辺はいいですな。裸になった雑木林のけやきの梢が真直ぐに夜空に立っているんです。それに、気温のせいか、薄い霧が遠くの森にかかっているんです。これは、もっと歩きたくなりましたね」
「あら、添田さん」
と孝子が気を利かして言った。
「だったら、久美子と一緒にその辺を歩いていらっしゃいません?」
「そうですか、久美子さんよかったら、ご一緒に歩いてみたいな」
「どうぞ、久美子、お供したら?」
久美子の表情が一瞬に動いた。
その僅かな変化を添田は見逃さなかった。久美子がこちらの意図を見抜いていると思った。
「ええ、参りますわ」
彼女は唾をのみこんだようにして答えた。
「では、ちょっと」
添田は孝子の方に眼を向けた。
「どうぞ、ごゆっくり歩いていらっしゃい」
添田は久美子を誘うように膝を立てた。
孝子は二人を玄関まで見送った。そこだけに明るい灯がこぼれていた。
この辺は花柏さわらの生け垣を廻らした家が多い。雑木林がところどころに黒い影となって、空に伸びていた。
二人はしばらく黙って歩いた。なま温かい晩だった。仄白ほのじろい道は幾つも曲がっていて、四つ辻が多い。
添田は、ゆるやかな坂道を下った。片側は大きな邸があって、そこには自然林のような植込みがあった。
久美子は添田のしぐ傍で肩を並べていた。いつもはもっと元気なのだが、やはり歩いていても首をうなだれがちだった。
添田は空気を肺の奥まで吸い込むようにした。
「京都は」
と添田はゆっくりと足を運びなから、久美子に言った。
「どういう結果でした?」
南禅寺の一件を承知していることを、その一言が彼女に伝えていた。
「母からお聞きになったの?」
久美子が低い声で訊いた。
「あなたが、京都に発たれたあと、お母さまから話しを聞きました」
「そう」
ヘッドライトが後ろから走って来て、道に二人の影を映した。
「お会いになれなかったそうですね?」
「ええ」
久美子はかすかにうなずいた。
「どうしたんでしょうね。わざわざ、京都に呼びつけておいて・・・まさか、あの手紙が悪戯いたずらというわけではないでしょう?」
「ご都合があったのだと思いますわ」
「しかし、それにしても、先方が少し気儘だと思いますね。あなたが来ることは向うもわかっていたと思うんですが」
川があった。石にかれたところだけ水が光っていた。
二人は短い橋を渡った。
「お母さまには何も言っていないそうですね。ぼくにだけ話して下さい」
添田は久美子の横顔を見て言った。
久美子は黙っていた。なぜか、そのことでは妙に頑固なのである。二人はまた暗い家の通りを進んだ。
2022/11/10
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