~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-04)
ゆるい勾配を上った。崖の上の小学校の建物が黒く見えた。
「お話ししますわ」
久美子は決心したように言った。しかし、その決意は、彼女が添田に誘われて家を出た時からつけていたものだった。
「その方の来なかった理由は、わたくしに護衛の警部補さんがついていたからですわ」
「こちらから一緒に行った人ですね?」
「そうなんです。南禅寺には来ないでいただきたい、と断わったんですけれど、その方が心配して、一緒に来られたのがいけなかったんdす
久美子は言った。
「先方は、その警部補さんの姿を、きっと、見たのだと思います。手紙にもありましたわ。指定の場所へはわたくしが独りで来るようにと、念を押してあったんです」
「そうですか」
添田は、久美子の暗い横顔を見つめるようにして歩いた。
「それで、南禅寺から苔寺へ廻ったわけですね?」
「諦めて、そっちへ行ったんです」
「苔寺はよかったでしょうね?」
「美しい景色でした」
しかし、その言い方には愉しげな口調はなかった。
「ああ、そこで、わたくし、一人のフランス人の婦人に遭いましたの」
「フランス婦人?」
添田は脚を停めそうになった。
「どういうことですか?」
ええ、その場は、ただ、わたくしがその方のカメラのモデルになっただけです。でも、それがあとで妙な因縁になりましたわ」
久美子は、添田に何もかも話してしまうつもりになった。一人では、いつまでも胸の中で処理出来ないのである。
しかし、これは母には言えなかった。よく判らないが、母には何となく言えないような漠然とした障害を感じていた。
しかし、添田になら言える。ひとつは、添田に判断をつけてもらいたかった。
「その晩、わたくし、Mホテルに泊まりましたの」
「蹴上の。・・・あすこはいい」
添田も小高いところにある典雅な建物を眼に泛べたようだった。
「わたくし、物好きなんです。ひとつは、警部補さんには悪いけれど、自由になりたかったんです」
「その気持は、よくわかりますよ」
添田は微かに笑った。道は左に曲がっている。
空のうす明かりの中に、森を交えた広い畑が見渡せた。遠くの家に、砂粒のような灯が点いている。
添田は、久美子がいよいよ事件を話してくれると期待した。やはり自分の予想通りだった。新聞記事で見たMホテルの現場に、久美子は居合わせたのだ。
しかし、そのことは自分から言わなかった。結論は久美子の話を先に聞いたからである。
「その晩、わたくし、そのフランス婦人から、食事の招待を受けましたわ」
久美子は詳しく話した。添田は耳を傾けて歩いていた。
あとは一気だった。ホテルのピストル狙撃事件をありのままに打ち明けた。
添田は、その事件のあらましを新聞記事で知っていたが、事実、現場に居合わせた久美子の話は、記事などよりも、ずっと生々しい実感があった。
「それは新聞にも出ていましたから、ざっと読みましたよ」
添田は初めて言った。
「あら、お読みになってらしたの?」
久美子は、ちょとおどろいたようだった。
「偶然だったのですが、その記事が眼に触れたのです」
それは嘘だった。久美子が京都に行ったので、わざわざ、大阪の本社から出ている京都版を調べたのだ。実際に事件を発見したのは本紙であったが。
その上、大阪本社の社会部に電話もしている。だが、それは久美子には白状出来なかった。
2022/11/10
Next