~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-05)
「新聞記事によると、狙撃された人は、吉岡という名前でしたよ」
添田は、そう言って横を見た。恰度、道が明るい外灯の近くになっていたので、彼女の様子がよく判った。それまで前方を真直ぐ見ていた久美子の眼が、急に低い眼差まなざしになったのである。
「お名前は存じませんわ」
久美子は低く答えた。が、その返辞は弱かった。
「あなたは、その吉岡という人を見たことがありますか?」
「あの騒ぎのなかですもの、とても見る勇気はありませんでしたわ。でも、その前に玄関で後ろ姿を見かけたことがあります。恰度、ホテルに着かれた時らしく、後ろ姿がエレベーターの方へ歩いているのを見ました」
「ちょっと待って下さい。それは何時ごろですか?」
「夜の十時過ぎだったと思いますわ」
添田は素早く頭の中で計算した。村尾芳生が羽田から日航機に乗ったのは六時頃だったから、京都に入るのは、恰度、その時刻になる勘定だ。
添田は、自分の想像がそのことで具体的に合致したと思った。
「久美子さん、あなたは、その人の後ろ姿に見憶えはなかったですか?」
久美子は黙った。すぐに否定はしなかった。これが添田に自信を持たせた。
「その人は、外務省の村尾さんに似てませんでしたか?」
添田はわざと脚を緩めなかった。それは久美子の気持を軽くし、返辞を素直に引き出したいためであった。
久美子はしばらく沈黙していた。向うから二人連れの男が歩いて来た。一人は口笛を吹いている。久美子の返辞があったのは、その通行人が通り過ぎてからだった。
「申します。あなたのおっしゃるように、その人は村尾さんによく似ていました」
「やっぱりそうですか」
間違いなかった。村尾芳生はMホテルで偽名を使っていた。ピストルで射たれて負傷してからも、警察でも、病院でも、その偽名で押し通している。
なぜだろう。
「知っている方は、もう一人いらっしゃいましたわ」
久美子は決然と告げた。
「えっ、同じホテルにですか?」
添田は、今度こそ正直に脚を停めた。
「そうなんです。わたくしの隣の部屋でしたわ」
「誰です?」
「滝良精さんですわ。わたくしに画家の笹島先生の所に行くようにすすめて下すった方です」
「滝氏が?」
添田は唖然あぜんとなった。あまりに自分の想像が的中しすぎている。
添田は、久美子と逢う前に、Mホテルに村尾芳生と滝良精とを並べて考えたが、久美子は実際にそれを目撃しているのだ。しかも、久美子の隣の部屋に滝氏は泊まっていたという。
「あなたは、滝さんと何も話しませんでしたか?」
「いいえ、はじめて滝さんだと気づいたのは、あの真夜中のピストル騒ぎがあったとき、泊り客が愕いて大勢廊下に出たのです。その中に滝さんの顔がありました」
「そうですか。で、滝さんの方では、あなたということを気づきましたか?」
「それはなかったと思います。わたくしも、そこで滝さんと顔を合すのは、ご先方に都合が悪いような気がしましたから」
「そうすると村尾さんの泊まっていたのは、あなたと泊まっていたしたフロアと同じですね?」
「いいえ、村尾さんは一階上でした。わたくしと滝さんとが三階で、村尾さんは四階の角から二番目でした。角の部屋が、わたくしを食事に誘って下すったフランス人夫妻です」
2022/11/13
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