~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-06)
「なんですって?」
道は森の茂った下を通って、また垣根のつづいた町なみに中に入った。遠くに車のヘッドライトが幾つもつづいている。
「そのフランス人は、夫婦者でしたか?」
添田の声は高かった。
「そうなんですの」
「だって、あなたはさっき、苔寺で出遇ったのはフランス婦人だとおっしゃったでしょう?」
「あのときはそうでした。日本人の通訳の人と二人だったのです。でもその方は、あとで、わたくしがMホテルに泊まっているのを知って、食事に招待したいからと、わざわざ、通訳の人を誘いに寄こしましたわ」
「苔寺で、主人の方は居なかったんですね?」
「そうです」
「そのフランス婦人は、幾つぐらいの方でしたか?」
「外国の方は、年齢としがよく判りませんわ。でも、もう、五十近い方じゃないかと思います。金髪の、そりゃあきれいな方」
「すると、あなたは、その旦那さまというのは見たことはないんですね?」
「いいえ、あります」
「なに、ある?」
添田はまたびっくりした声を出した。
「何処で?」
「南禅寺でしたわ」
「うむ」
添田はうなった。
「南禅寺のどこで遇いました?」
「寺の庭でしたわ。そこは、方丈を入って中庭を拝観するようになっています。白い砂地になぎさの波のような箒目ほうきめが入っていて、石組が島のように見えるんです。竜安寺の庭に蒼い樹をあしらったと言ったら、その感じが出るかも知れません。恰度、そのとき、外人の観光客の一行が入っていて、その中に、そのご夫婦がいらしたんです」
久美子はつづけた。
「もちろん、それはわたくしが苔寺に廻る前でしたから、そのフランス婦人の方とは、まだ知り合っていませんでした。でも、そのご夫婦は、日本人のように方丈の縁側に腰を下ろして、飽かずにゆっくりと庭を眺めていらしたんです」
「その主人というのは、どういうフランス人ですか?」
「そうですね、フランス人というよりも、何か、スペイン系か、イタリー系の人のように思いました。というのは、髪こそ真っ白いのですが、皮膚の色も、眼の色も、東洋人みたいなんです」
今度は添田が黙る番だった。
「その夫婦は、あなたを見ませんでしたか?」
添田は抑えた低い声で言った。
「あのときは、偶然に、日本人といったらわたくしだけでしたわ。そんな意味で、そのご夫婦の方だけでなく、一行の外人の方にじろじろ見られましたわ」
「で、そのフランス人・・・つまり、あとで、あなたがホテルで食事に誘われたフランス人夫婦は、特別にあなたに関心を見せませんでしたか? 例えば、ものを言いかけて来るとか、熱心にあなたの方を見ているとか・・・」
「いいえ、そんなふうには見えませんでした。もちろん、言葉をかけられたのも、苔寺の時が初めてなんです」
「もう一度お訊きします」
添田は言った。
「あなたが南禅寺の山門の所で、手紙のあるじを待って立っていらした間、その外人一行は近くに居ませんでしたか?」
「そうですね?」
久美子は考えていたが、
「そう、わたくしが立っていたとき、その観光客を乗せたハイヤーが、下から上って来ましたわ。それはわたくしの傍を過ぎて、方丈の前に停まったんです。そうでした、車を降りた人たちが、南禅寺の名物になっているあの山門のとろへ来て、ガイドの説明を聞きながら、高い屋根を見上げたり、カメラで写真を撮ったりしていましたわ」
「もちろん、そのフランス人夫婦も、その中に居たんですね?」
「いたしたと思いますわ。でも、それは気が付きませんでした。わたくしは手紙の方を待って、ずっと境内の入口ばかりを気を付けていましたから」
「そうですか」
添田はまた黙った。
2022/11/13
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