~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-07)
二人だけのゆっくりした歩調が道の上をたどって行く。道は、外灯のあるところだけが円く明るく、そうでないところは遠くの光を淡く受けていた。
かすかに朽ちた葉の匂いが漂って来る。
「あなたは、ホテルで、そのフランス人夫婦の招待をお断りになったわけですね?」
添田はまた訊いた。
「お断りしました。なんだか、初めての方では気詰りだったし、その晩は、京都名物の“いもぼう”をいただきかったんです」
「そりゃ、落胆なさったでしょう」
と添田は思わず言った。
「いや、その、あなたをんだフランス人夫婦のことですよ」
「でも、ちょっとしたことで甘えたくなかったんですもの」
「その写真は、きっと、その夫婦のいい記念になったでしょう」
添田は歩きながら、自分の言葉の反応を久美子の顔に見出そうとした。しか、暗い中だったが、久美子の呼吸は今までと変わりはなかった。
「そのフランス人夫婦の名前を聞いていますか?」
「いいえ、お名前は伺っていません。ただ、通訳の方、フランスの婦人ということだけを教えたのです。なんでも、日本には観光にいらしたんだそうです。ご主人、貿易の方の仕事をしてらっしゃるとか言っていました」
「惜しかったですね」
添田心から言った。
「あなたがその晩餐ばんさんの席に招待されたら、また別な経験になったでしょう」
この別な経験というにに、添田は力を入れた。
「そうでしょうかしら? わたくしは、そうは思いませんわ」
「どうしてですか?」
「ただの旅の往きずりにお遇いした方ですもの」
「旅の往きずりでも、人生に大きな転機となることもあります」
「添田さんは、わりと運命論者ですのね・・・」
「ときには、それを信じたくなることもあります」
「運命は、わたくしよりもあちらさまの方でしたわ。だって、その晩の夜中に、あのピストル騒ぎが起こったんですもの。恰度それがフランス人夫婦の方のお隣でしたわ」
「念のために伺います。射たれた人の部屋は、何号室ですか?」
「405号室でした。四階ですから」
「では、フランス人夫婦のひとりは、404号室か、206号室ですね?」
「406号室ですわ」
「その騒ぎがあった時、そのフランス人はどうしたでしょう?」
「その朝出発したのを、わたくしが見ました。きっとびっくりしたことでしょうね。すぐ隣で、その騒ぎがあったんですもの」
「隣でね」
添田は言った。
「そりゃ愕くのも無理はありません。で、ホテルを引き上げて、どこへ行ったのか判りませんか?」
「いいえ、聞きません。わたくしに関係ないことですわ」
「そりゃそうです」
添田はうなずいた。
「あなたには関係ないことだ」
道は久美子の家の方角へ戻りかけていた。
「それで、滝さんの方はどうです?」
「滝さんは、朝早く、ご出発でした」
「そうですか。滝さんもね」
添田が考えるように空を見上げた。星がうすく出ていた。
「そのほか、その晩、あなた自身に何か変わったことは起こりませんでしたか?」
「起こりようがありませんわ」
久美子はそう答えた後、気づいたように付け加えた。
「そう、そうおっしゃれば、わたくしの部屋に、何度も間違えて電話がかかって来ましたわ」
「間違えた電話?」
「部屋を間違えてるんです。交換台からじゃありません。ホテルの中のお客さまが、よその部屋にかけたんです。男の声でしたわ」
「何か言ってましたか?」
添田も声は少しふるえを帯びていた。
「いいえ、わたくしが、違います、と答えたら、失礼いたしました、と言って、それきり切れましたわ」
「それが一度だけではなかったんですね?」
「ええ、三度、そういうことがありました。ただ、ベルだけ鳴って、受話器をとると、もしもし、と言うだけで切れたこともありました」
「先方は、久美子さんの声を聞きたかったのかも知れませんね」
しかし、この添田の言葉は、深い意味に久美子取れなかった。
久美子の家が近くなった。
電車から降りた人たちであろう。五、六人が一団となって、黙々と道を足早に歩いていた。
「添田さん」
久美子は言った。
「わたくしにはさっぱりわけが判りませんわ」
この言葉は、添田の耳に不安そうに聞こえた。何か自分を中心に見えない渦が巻いている。渦の実体は分からない、そういった不可思議な危惧きぐが彼女の言葉の響きに出ていた。
2022/11/14
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