~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-08)
添田は、よほど自分の推察を彼女に打ち明けようかと思った。しかし、それはあまりに重大すぎた。迂闊うかつなことは言えないのである。久美子もだったが、彼女の母の孝子への影響もあった。何気ない一言でも、母娘おやこには大地が崩れそうな衝撃に違いなかった。
「添田さんは、どういうふうに判断なさるかしら」
花柏さわらの生け垣が両側につづいた細い道に戻った。
「いろいろのことがありましたわ。滝さんから頼まれて、笹島先生の絵のモデルになったときから、わたくしの周囲に、自分でもわけの判らない渦が巻いているような気がするんです。笹島先生は、突然、亡くなられるし、京都に行けば、村尾さんがピストルで射たれました。同じ宿に滝さんが見えている。みんな見えない糸で張りめぐらされているような気がするんです。わたくし、あの手紙に誘われて京都になど行かねばよかったと、後悔してますわ」
久美子のショックは、添田に判り過ぎるくらい判った。実体がないだけにこの不安は大きい。
「判断はぼくにもつきません」
添田はやはりゆっくりと歩きながら答えた。
「しかし、あなたがそう気にすることはないと思いますよ。偶然にいろいろなことが起こった、というだけでしょう」
「いいえ、偶然が幾つも重なれば、なんだか必然みたいなものを感じるんです」
「そりゃ思い過ごしでしょう」
添田は言った。
「そう気になさることはないと思います。人間、気にしたら際限きりがありませんからね。なんでもないことでも、妙に神経がとがってきます。ノイローゼの人なんか、そうでしょう。普通の人間が、平気で見過ごしていることを、いちいち、気に病んでいるんですから」
添田はそう言いながら、久美子もそのノイローゼ気味になっているのではないかと思った。そういえば、いつも快活な彼女がしょんぼりとしているし、そのくせ、どこかに頑固なところももっている。元はそんな性質ではなかった。素直で明るいのである。
「夜なんか、よくおやすみになれますか?」
「ええ」
久美子は低く答えた。
「熟睡というほどではありませんが」
「少し、運動でもなすったらどうです? 頭をできるだけ空っぽにすることですよ。身体だけ使って、何も考えないで、ぼんやりとするんですね」
「・・・・」
「音楽会とか、展覧会とか、出来る限り、そんなものを聞いたり、見たりなさることです」
ここまで言って添田は、そうだと気が付いた。
「音楽会といえば」
と添田は、来日する世界的なバス歌手の名前を言った。
日比谷ひびや公会堂でやることになっています。切符はぼくが手に入れますから、なんでしたら、お母さんと一緒にいらしたらどうです?」
久美子は初めて少し明るい声で、
「有難う」
と言った。
「ぼくも、その晩に身体が空いていたら、お供しますよ」
「そう、うれしいわ」
やはり若い女性だった。久美子は、これまで、音楽会にはよく出かけていたが、ここしばらく、その方の足が停まっている。
「何も心配することはありません」
添田は勇気づけた。
「ただ、久美子さんの頭が疲れているんです。しばらく、ぼんやりすることですね。何も考えないことです」
久美子の家の玄関の灯が見えてきた。
「では、ぼくはここで失礼します」
「あら」
久美子が添田の正面にむかい合って停まった。
「お寄りになったら? 母もお待ちしてますわ」
「もう、おそいですから、失礼します。お母さまによろしく言って下さい」
「だって、すぐそこなんですもの」
「ご挨拶して来たらいいんですが、今夜は、このまま失礼します」
添田は久美子の手を握った。
「元気を出して下さい」
久美子の顔が添田のすぐ前にあった。眼を大きく開き、対手の瞳を覗き込むようにしている。仄暗ほのぐらい路の上だったが、彼女の片側の頬に、淡い光が一筋の線をにじむように描いていた。
「ご心配かけました」
久美子が言った。その息が添田の顔に軽く触れた。彼女の指が握りしめた添田の手を包むように押えた。
「さようなら」
添田は手を放した。
「そのまま歩いてお家の中に入って下さい、ぼくはここに立ってお見送りしていますよ」
添田は両手をポケットに入れた。
「おやすみなさい」
彼女は彼にぴょこんと頭を下げると、背中を返した。
その黒いうしろ姿を、添田は番卒のように立って見送っている。久美子の姿が一つだけ、その道の向うに小さくなって行った。両方の家の奥には木立もある。家と樹に両方から挟まれた路を歩いて行く久美子の姿が、ひどく孤独にみえた。
久美子は家の前に着くまで、たしかに二、三度は振り返った。添田がそこに立って居るのを確かめるというよりも、そのつど、さようなら、と言っているようだった。
2022/11/15
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