~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (18-09)
添田彰一は大阪の本社の友だちに電話をした。京都のMホテルに、十一月二日の朝まで泊まっていたフランス人夫婦の名前を調べてもらうように頼んだ。
直接、Mホテルに電話してもよかったが、ホテルは宿泊人の名を容易に第三者には明かさない。yはり、なじみの記者でないと本当のことは言わないであろう。添田が言ったのは、いつもMホテルに取材に行っている記者に依頼して、それを報せてもらいたいということだった。
その返辞は夕方までにあった。
その客は、ヴァンネード夫妻というのだった。夫がロベール・ヴェンネードで、妻がエレーヌである。職業は貿易商となっている。夫の方の年齢は五十五歳、妻は五十二歳だった。
ヴァンネード夫妻!
添田はこの名前を呪文のように繰り返して呟いた。
だが、果たして、それが本名かどうかである。偽名ということもあり得る。殊に、この夫妻の場合は、その線が濃厚だった。濃厚というのは、それだけの理由を添田が想像しているからだった。
しかし、先ず名前が判った以上、その名で探さねばならぬ。
ヴァンネード夫妻は京都を引き揚げている。多分、東京に戻ったかも知れない。あるいは、大阪かも知れぬ。
それとも、宮島みやじまや、別府べっぷ温泉などへ遊覧途上にあるのかもわからない。しかし、とにかく、思いついたところからやってみることだ。
添田は電話帳を繰って、外人の泊まりそうな一流ホテルの番号を書き抜いた。
彼は、新聞社から次々にホテルを呼び出した。
「ヴァンネードというお客さんが、あなたの方に泊まっていませんか。フランス人ですがね?」
質問はこれだった。
どのホテルも返辞は決まっていた。
「そういうお方は、お見えになっていません」
「これまで、そういう名前のフランス人が、泊まったことはありませんか? また近い将来にヴァンネード夫妻の名前で部屋のリザーヴはありませんか?」
これにもホテル側の返辞は、ない、というのだった。添田は、半分は予期したことだが、がっかりした。
ホテルの返辞には二つの意味がある。
一つは、当人がまるっきり別な名前で泊まっているということだ。つまり、東京ではヴァンネード夫妻という名前を名乗っていないという想像である。
もう一つは、現在、その夫妻自身が東京に居ないということだ。
しかし、近い過去にその名前で投宿者がなかったとなると、偽名の線が強いようである。フランス人が日本に来て、東京のホテルに泊まらないわけがない。やはり偽名であろう。
しかし、外人客がホテルに投宿する場合、日本人みたいに偽名ができるだろうか。外人は宿泊人名簿に自分の名前を書くと同時に、必ずパスポートの番号を書き入れることになっている。
添田はこの手続きに疑問を持った。
彼はそういうことに詳しい人に訊いてみた。
「そりゃ、出来ないことはないだろうね」
知人は頭をかしげて答えた。
「その外人に魂胆こんたんがあって、別な名前を書く場合、パスポートの番号を変えるおいうこともあり得る。何もホテルのフロントで事務員がパスポートを手にとって、客の書いた番号と一々照合するようなことはしないからね。当人がそのつもりだったら、どうにでもなるよ。殊に地方に行けば、そのことはもっと簡単に出来そうだ。何だね、一体?」
知人は添田が新聞記者だものだから、面白い事件が起こったのかと思って、興味深そうに訊き返した。
2022/11/15
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