~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-02)
「これですやな」
住職が男を振り返った。
墓は石垣で造られた玉垣をめぐらしていた。しかし、墓標は自然石で出来ている。男はその正面に立った。墓石の表には、「亭光院ていこういん蒼円真観そうえんしんかん居士こじ」と読まれた。
男は短い石段を上って、花筒に持って来た花を差した。住職が水桶を傍に置くと、男はかがみこんで、蝋燭と線香に火をけていた。
永い礼拝だった。用意して来たものか、手に黒い数珠じゅずを掛けている。
住職は男と並んで短い経を唱えた。並んだ二人の背中に上に風が通り過ぎた。男は、住職の経が終わっても、まだ跪拝きはいをつづけていた。うすい肩に、雲を出た陽が落ちた。
男はまだ頭を下げて眼を閉じていた。その真剣な姿が、住職をその場に永く立たせた。
男はようやく起き上がると、桶から柄杓ひしゃくに水を汲み、墓石の上にかけた。雫杓しずくが石を筋になって濡らした。
短い念仏がまた男の口から洩れた。
遠くの汽笛の声を風が運んだ。
永い礼拝だった。こんなにも心をめる人は、肉親のほかめったにないように思われた。住職の眼がいぶかしげに見えたのは、そのせいである。
男は改めて海の方を見た。恰度、墓標と風景との関係を確かめるような眼つきだった。
「いい景色ですね」
男は痩せた顔に、少し晴れた表情を泛ばせた。
「寺島さんも、こういうところに眠っておられると、仕合せですね」
静かな言葉だった。まだ遠い眼つきで沖を見ている。沖には島が描いたように浮んでいる。
光の筋が島の突端で切れていた。
「左様、やっぱり生まれ故郷ですもんな。人間、眠り場所は、やはり生まれたところにかぎりますやな」
和尚は言った。
「寺島さんはここのお生まれだと知っていましたが、やはり町の中ですか?」
男は住職に訊く。
「ちかと町から外れてますばってん、今では、遺族の方が町で商売しとられます」
「ほう、ご遺族が?」
「元は、この辺の地主さんばってん、戦後の農地改革で土地が半分になり、とうとう、手放されて、雑貨屋ばいとなんどらす。ご命日には、きまってこのお墓にお参りにどざらっしゃるばい」
「奥さまは、まだお元気でしょうか?」
「はい」
「もう六十二、三・・・?」
「いいえ、あなた、七十にならっしゃるとばい」
「ほう、もう、そんなに?」
男は愕いたように眼を海へらした。
「ほかのご遺族もお元気ですか?」
男は訊いた。
「はい、みんんあ達者でおらす。息子さん夫婦がよか人ですけん、ご隠居さんも仕合せですばい」
老僧が答えると、男はかすかに太い息を吐いた。
「それは結構ですな、安心しました」
住職は墓参の客の顔を改めるように見た。
「あなたさまは、よほど、寺島さんとはお親しかった方ですな?」
「お世話になった者です」
「ほう、そいじゃ、寺島さんのご遺族ば、ここへ呼んであげまっしょうか?」
男は首を振った。
2022/11/17
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