~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-03)
「結構です。わたしが帰りにお寄りしますから」
「そうですな。この寺の道ば表通りへ出て、博多の方角へ行きんさると、左側に寺島商店と言う雑貨屋さんがござんすけん、すぐわかりますばい」
「ありがとう」
「けど、寺島さんも公使までならしゃって、これから先の出世が楽しみちゅうときにほんに気の毒かでしたなア」
僧は墓石を眺めて言った。
「終戦後すぐ死んなはったから、あいはやっぱり、日本の負け戦がこたえたとでしょうな?」
「そうかも知れません」
男は軽くうなずいた。
「なかなか優秀な外交官ちゅうて、評判ばとっとなはったそうだすな。いえ、この土地のもんも、郷土が出した人じゃけん、がっかりしましたやな。あげな立派な人は、もうここからは出ませんばい」
住職を見返して、男は同感したように何度もうなずいた。
戦争のさ中に、中立国公使というむつかしい立場で、えろう激しい苦労しなはったけん、お疲れもあったでしょうな?」
「そうだと思います」
男は住職と一緒に、足を寺の方へ移した。靴の下で落葉が鳴った。
「亡くなられてからは、東京から外務省のお方がときたまお見えでしたばってん、近ごろは遠方から見える方もなかです。あなたが久しぶりの方でやすな」
「そうですか」
老僧の遅い脚に男も歩調を合わせていた。
枝折戸の外に出ると、本堂わきに出た。落葉が木の根にうず高くかたまっていた。
後ろが林になって陽を遮蔽しゃへしているので、ここまで来ると、急に暗く感じられた。
「どうぞ、あちらへ。お茶でも差し上げたかです」
僧はすすめたが、男はこれをおだやかに断わった。
「有難いんですが、少し先を急ぎますので、ここで失礼させていただきます」
男はポケットから包みを出した。
「失礼ですが、寺島さんの菩提ぼだい料の一端にさせて頂きたいと思います」
「おお、そうですか、それは、それは」
住職は紙包みを押し戴いて、その上に書かれた文字を読んだ。
田中孝一と墨で書かれてある。
「田中さまとおっしゃいますな?」
「はあ」
「早速、遺族の方に、こればお見せしまっしょ」
「いえ、どうか黙っていて下さい。たとえ、お見せになっても、わたしの名前はご存じないと思いますから。ただ、生前の寺島さんとわたしだけの交際でした」
老僧は、また紙包みの文字に眼を落とした。これは丁寧に眺めたものである。
「なかなか、ご立派な文字ですな」
僧はしばらくして顔を上げた。
「失礼ばってん、この字は、米芾べいふつの書流と見ましたが」
「いや、そんな・・・」
「いえ、わたしも、書道ばやってましてな。この辺の人に教えとります。そこで、書のことは 多少わかりますが、いや、なかなかご立派な手蹟ですば。近ごろ、こういうものに出会わんので、ほんに嬉しかです」
住職は墓参客を石段の上まで見送った。その長身の姿の下で車が小さく動き出した。
2022/11/17
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