~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-04)
男は座席から運転手に言った。
「その通りを右に折れると、雑貨屋があるそうだ。寺島商店というんだがね。そこの前で徐行してくれたまえ」
車は指図通りに走った。
大通りに出ると、両方が商店の軒になっている。津屋崎はふるい港で、ここに並んでいる家もどっしりした構えの家が多い。赤い陽をうけた土蔵造りもあった。
男は前方から流れて来る家に注目していた。
「君、そこだ」
運転手にも「寺島商店」の看板が眼に入ったらしい。徐行を始めた。
同じ店が煙草も売っていると知った時、客は急に停車を命じた。
「煙草を買って来る」
「だんな、わたしが買いましょう」」
「いや、いいんだ」
自分でドアを開けた。
店は地方にありがちな間口の広いものだった。一方では雑貨を商い、店の一部を煙草の売場にしている。奥が暗い。煙草の並んだガラスケースの向うに、十七、八くらいの少女が坐って編み物をしていた。客の影がさしたので、その少女は白い顔を上げた。
「ピースを三つ下さい」
少女はケースの中に手を動かした。客は前に立ったまま、その動きを見ている。眼は熱心に少女の顔に向いていた。
「有難うございます」
少女はおじぎをしてピース三つをケースの上に出した。
「マッチありますか?」
「はい、ございます」
客は早速、はこを破って一本を口にくわえ。少女が渡したマッチを手に取った。すぐ立去るのではない。その備え付けのマッチを置いても、青い烟を吐いてたたずんでいた。
「あなたは、この家のお嬢さんですか?」
ためらっていた客が思い切ったように訊いた。
「はい」
びっくりした顔だった。ほそおもて面が可愛い感じなのである。
「おいくつですか。いや、これは失礼。つい、わたしの知っている人に似ているものですから」
少女ははずかしそうに微笑した。
少女の後は商品棚になっている。奥は暗くて先がわからない。西陽にしびが店先に当たって、そこだけ光が留まったように明るい。
「ご機嫌よう」
少女には不思議な客だった。車に乗る姿を少女は一心に見ていた。
車のうしろ窓から客は寺島商店を振り返っていた。それが次第に遠くなり、町の家並も切れた。
客は何となく安堵あんどしたような表情になっていた。
しかし、妙に黙っている客だった。博多のホテルから乗せた人だったが、かなり長い道中なのに、運転手の方からものを言わねば、言葉を吐かなかった。話の嫌いな客らしい。その客が小さな駅を過ぎる時に、急に言い出した。
「君、夕刊を買って来てくれないか」
新聞は福岡ふくおかで発行されるものだった。客は車の動揺に身をまかせて読みふけっている。
外は夕陽の当たった山が赤いひだを描き分けていた。田圃にはもう光はない。
客は新聞を読むため眼鏡を掛けていたが、ある一部に眼を止めると、急に新聞を持ち変えて覗き込んだ。
記事は短い。
「目下、九州大学で開催中の医学会は、東京、京都をはじめ全国各地からの学者が参集し、連日熱心な学術討論をつづけているが、本日の講演者と演題は次の通りであった。
前癌ぜんがん状態と胃潰瘍いかいようについて K大学 倉富良夫くらとみよしお博士
白血病の病理組織学的観察 T大学 芦村亮一博士
客は眼を離して窓外を眺めたが、それはこれまでになかった動揺した顔だった。その後も同じ記事を三度も読み返していた。
2022/11/18
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