~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-05)
芦村亮一は、電話の言づけを宿で聞いた。
今日の会が終わって、親睦会のためにレストイランに行ってきた。電話がかかったのは、その留守である。
宿の女中は、交換台が聞いたメモを持っていた。
明日午前十一時に、東公園の亀山かめやま上皇銅像前でお待ちしています。もし、ご多忙でご都合が悪い場合は、お目にかかれぬものと諦めます。小生は十一時半までお待ちしているつもりです。
交換台で取った文字だった。
芦村亮一が知っている山口とうう姓は多い。しかし、このような妙な指示をして来る男は一人も居なかった。心当たりがないのだ。
彼は部屋から交換台に電話をした。
「たしかに、ぼくにと言いましたか?」
「はい、こちらで二度も念を押しましたから、それは間違いございません」
交換台はそう答えた。
「ただ、山口、と言っただけでしたか?」
「それで分かるんだ、とおっしゃいました」
「おかしいな」
「ご存知ない方でございますか?」
「どうも、心当たりがない」
「申し訳ございません。ご先方の方がそのようにおっしゃいましたので、つい」
「いや、かまいません。で、むろん、男の人でしょうね」
「さようでございます。なんだか、年配の方のように思いましたが」
「もう一度、電話をかけて来るということは。言わなかったでしょうね?」
「べつにおっしゃいませんでした」
芦村亮一は電話を切った。
彼は長いこと、そこで煙草を吸っていた。部屋は電車通りに面している。電車の音と、車の走る音とを聞きながら凝然ぎょうぜんとしていた。
彼は三十分ぐらい考え込んで、交換台を呼んだ。
「東京を願います」
電話番号は自宅のものだった。
局の交換手は、そのままお待ち下さい、と告げた。
向うの音が出るまで、芦村亮一は姿勢を崩さなかった。眼も天井の一角を見たままだ。
お話しください、という交換手の声につづいて、妻が出た。
「節子か?」
「あら、あなたですの。いかがですか?」
「うむ、順調に行っている」
「あと二日ですわね」
「二日だ」
「ご苦労さま。予定通りにお帰りになれます?」
「帰る」
「変だわ。何かご用事ですの?」
節子は、亮一の声の調子に気づいたようだった。
「いや、。なんでもない。ぼくの留守に変わったことはなかったかね?」
「いいえ、何もございませんわ」
「そうか」
「何ですの?」
「ただ、家の様子を聞きたかっただけだ」
「変ね、今まで、めったに旅先からそんなお電話を頂戴したことないわ」
芦村亮一はためらっていた。電話をかけたときは、そのことを言うつもりだったが、言葉が出なかった。
「もしもし」
亮一が黙っているので、節子が催促した。
「何だ? 聞いている」
「急に黙っておしまいになって」
「いや、福岡は初めてだ。来てみると、なかなかいいところだよ。君はまだこちらを知らないだろう?」
「存じませんわ。九州はまだなんですもの」
「この次、機会があったら、連れて来てあげよう」
「そう。うれしいわ。この前は京都の学会で、奈良を見せて頂きましたわ・・・・そんなお電話、わざわざかけて下すったの?」
節子の声がはしゃいでいた。
「久美子は九州に来たことがあるかな?」
亮一は何気ないように訊いた。
「さあ、久美ちゃんはどうかしら。学校か何かで行ってるんじゃありません?」
「そうかな?」
また言葉が跡切とぎれた。
「孝子叔母さんは、どうだろう?」
ぽつりと言った。
「さあ、聞いたことがありませんわ。あら、おかしな方。みんな九州にれて行って下さるおつもり?」
節子は笑い声を立てた。
「きっと、みんな大喜びしますわ。今度、久美子でも来たら、話してやります」
「いいよ、止せよ」
亮一はあわてて止めた。
「黙っておくんだ。いや、ぼくはただ思いつきで言っただけだからな」
「そうでしょう、急におっしゃるんですもの」
「帰ってから、ゆっくり話す」
「あなた、そちらで変わったことでもありましたの?」
「そうじゃない。何もありゃしないよ。じゃ、これで切るよ」
「そうですか。あと二日、」頑張って下さい。ご苦労さま」
「はやくやすめよ」
「ええ、でも、思いがけない時にあなたのお声を聞いて、うれしかったわ。今夜は、きっと、よく睡れると思います。おやすみなさい」
亮一は電話を切った。切ってからもまだ晴れない顔だった。遂に何も言えなかったことが、彼の眼を茫乎ぼうことさせていた。
2022/11/19
Next