~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-06)
十一時きっかり芦村亮一は車で東公園の入口に着いた。
広い公園は芝生の黄色が主調になっていた。並木も裸の梢ばかりが多い。
亮一は小高く作られた台地の上に立っている銅像を目標に歩いた。弱い冬陽を含んだ雲を背景に亀山上皇が束帯そくたい姿を黒く見せていた。銅像を中心に台地の周囲は、つつじで埋められていた。季節になると見事なものだと、宿では教えた。東公園に行くと言ったので、見物に出かけると思ったらしい。
学会は今日もあったが、亮一は同僚に頼んで休むことにした。この機会をのがしたら取り返しのつかないことになるような気がした。
足もとに風が舞っている。昨日より寒い日だった。亮一は銅像に行く小径へ曲がった。
歩いている人は居たが、家族伴やアベックが多かった。子供が黄色く枯れた芝生の上を走っている。樹の間に茶店の赤い屋根が見えた。
亮一は眼で探したが、それらしい人物は見当らなかった。上皇は寒空に毅然きぜんしゃくを構えていた。
亮一は丘についている石段を上った。銅像に届くまで平らの場所がある。彼はそこに佇んだ。かなり高いので、公園一帯が見下ろせる。遠い松林の向うに日蓮にちれんの銅像が袂をひるがえして立っていた。
ベンチに坐って煙草を出した。眼は絶えず下の方にそそがれている。新しい人が公園に入って来るたびに視線が緊張した。
公園の傍を走っている電車の音が聞こえる以外、静かな領域である。広いので、歩いている人の姿が小さかった。
雲が芝生に上に、まだらの影を移動させていた。
このとき、うしろで軽い靴音がした。靴音は亮一の横に廻った。
その人は、近ごろ珍しい鳥打帽をきちんと被りオーバーのえりを立てていた。背が高かった。
彼はベンチの端に立っていた。亮一とはかなり距離を置いている。それも亮一を見るのではなく、公園を眺め下ろしていた。
亮一はその人の横顔をじっと見た。まだ気持の中に疑いが残っていた。すぐに声を掛けなかったのも、なだ半分は信じられなかったからだ。
何か呟きがその人の口から洩れた。最初の声は風が消した。真直ぐに公園を見下ろしたままで、まるで、歩哨のような端正な姿勢だった。
芦村亮一がバネのようにベンチからったのは二度目の声をはっきり耳に捕らえたときだった。
りょうさん」
その人はそのままの恰好で名前を呼んだ。雲が彼の横顔をかげらせた。もっとも、帽子とオーバーの衿とで半分しか見えない顔だった。
亮一はその人の横に急いで歩き、一尺とは離れない所に立った。横顔を見つめたままでsる。「やっぱり・・・」
亮一はあえいだ。
その人はまだ姿勢を変えなかった。視線もやはり公園に向いたままである。
「ぼくだ。・・・しばらくだったね」
声はれていた。しかし、亮一に確かに聞き憶えがあった。二十年近く耳にしなかった懐かしい声だった。
2022/11/20
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