~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (19-07)
「亮さん、おめでとう。新聞で読んだ。博士になってるんだね。偉いな」
「叔父さん」
久しぶりに出る呼び名だった。声が震えた。
「叔父さん・・・」
あとの言葉が詰まった。胴震どうぶるいがした。指先がしびれてくる。
「そこに掛けよう。お互い、世間話のような恰好をしているんだ。分かったかな。亮さん」
自分でハンカチを取り、ベンチのほこりを亮一の分まで払ってくれた。
どっこいしょと軽い掛声をかけて坐った。これは亮一の心を抑えるための動作だった。
煙草をゆっくりとオーバーから取り出し、ライターをけた。その身振りを亮一は瞬きもせずに見ていた。はじめてわかったが、鳥打帽の下から白い髪がハミ出ていた。横顔は普通通りに彫の深いものだった。
亮一は息ができなかった。
対手は悠々ゆうゆうとしている。青い烟が雲の中に吐かれた。
「とうとう、出て来たよ。亡霊がね」
その眼は公園の冬景色を鑑賞していた。
「しかし・・・」
亮一は何を言っていいか分からなかった。そこにいる人にまだ実感が定着しない。
「ぼくだとすぐわかったかね? 宿のことづけだが」
歯切れのいい東京弁も変わってはいない。
「・・・そりゃ、分かりました。叔父さんだと気つきました」
「死んでいる筈のぼくがね、亮さんにそう知れたのは、どういうことだろう?」
「前から、そんな予感がちらちらしていたんです」
「久美子は、気づいていないだろうね?」
久美子と言ったとき、声の調子が違っていた。
「気づいていません。ぼく以外には、あるいは節子が半信半疑でいるかもしれません」
「そうだった、節子は元気かね?」
「ええ・・・それに叔父さん、叔母さんも元気です」
「知っている」」
この返辞は、かなり時をおいて出た。眼が下を向いた。
「ご存知だったんですか? 日本に来られてから、誰かにお聞きになったんですか?」
「見たのだ」
「え、どこで?」
「一度は、歌舞伎座だ。久美子もその時見た。大きくなったものだ」
孝子のことに触れなかった。
「外務省関係の事務所に勤めてるんだって?」
「そうなんです」
「夢のようだな。ぼくが日本を離れる時は、まだ幼稚園だった・・・小っちゃな鞄を肩に掛てね。赤い兎の絵のついたやつだ。防空頭巾ずきんが鞄といっしょに下がっていた。モンペをはいてね。母親の孝子のお古を仕立てたやつさ」
「叔父さんが孝子叔母さんと久美子さんを歌舞伎座でご覧になったというのは、偶然ですか?」
「まあ偶然だったと言っておこう」
少し遅れて出た返辞だった。
「あんなに大きくなったとは、思わなかった」
「叔母さんはいかがでした?」
「うむ」
間を置いて、
「亮さん」
「・・・・」
「それで君をここに呼び出したんだが。・・・そうだ、学会で忙しいんだろう?」
「いや、そんなこと、どっちでもいいんです」
「済まなかったな」
亮一は野上顕一郎の横顔をつくづくと見た。新聞で任地での死亡をはっきりと公表された人だ。亮一はまだ記事を憶えている。写真入りで履歴が付いていた。
その当人が、今、眼の前にいるのだ。
「亮さん、まだ、ふしぎそうに見ているね。この通り足はついているよ」
野上顕一郎は冗談めかして、靴で地面を蹴ってみせた。
「しかし、どうして・・・・」
「ぼくの死亡が発表されたかと聞きたいんだね?」
「あれは、当時の政府の発表です。新聞社の特派員の電報ではありません」
「その通りだ。野上顕一郎はこの世に存在しない」
野上顕一郎は疲れたように背中をベンチにもたせた。自然とその姿勢が伸び、眼が雲を見る恰好になった。
「わたしという人物はここにいる。しかし、野上顕一郎はどこにもいないのだ。死んだことに間違いはない。日本政府のれきっとした公表だ」
芦村亮一の方が顔を硬ばらせていた。
2022/11/20
Next