~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-01)
高い場所に立つと空が広い。
灰色の雲が西の方角に流れていた。雲は鈍い光にふちどられている。
野上顕一郎はベンチに坐ったまま、身じろぎもしなかった。ハンティングのひさしの下が暗くなっている。彫の深い顔に皺が深まり、顎の下の咽喉に老いが見えていた。
芦村亮一は、生活の匂う身装みなりだけでなく、国籍も日本人ではなくなっている叔父を見つめていた。
「どういう事情か、ぼくには呑み込めません」
亮一は言った。
「むろんだ」
と顕一郎は即座に答えた。
「自分のこと処置したのだ。誰からも強制されたのではない」
「しかし、それには理由があるはずです。ぼくらに、叔父さんが死亡によって日本人でなくなったという動機が摑めないんです」
「やむを得なかったのだ」
顕一郎ははっきり答えた。
「とおっしゃると?」
「亮さん、人間は環境によっては、途方もなく気持が変わるものらしい。元来、しっかりと持っているようで、案外、意志という奴は環境に支配されるものだ・・・これは初歩の唯物論ゆいぶつろんみたいな言い方になったがね」
「その環境が問題なのです。叔父さんの意志をそこへ持って行ったという環境とは、何ですか?」
「戦争だ」
顕一郎は短く言った。
「それ以上には言えない」
「しかし、戦争が済んで、かなりの歳月が経っているのにまだその秘密が残っているのですか?」
「わたしのことに関してはね」
「しかし、チャーチルも、イーデンも、戦争中の回顧録を公開しています。今さら叔父さんだけが・・・・」
「断わっておくが、わたしは、それほど大物ではない。びょうたる在外公館の書記官だった。大物ならあとで差支えない事だけを告白出来るが、小者はかえって何も言えない場合が多いのだ」
「では、叔父さんが日本人でなくなったのは、お国のためだったのですか?」
「もう、止そう。だんだん白状しそうになるのでね。わたしのことは、それくらいで止めてくれたまえ。事実だけがここにある。亮さん、そう思ってわたしを見てくれないか」
野上顕一郎は松林の上に眼を移した。遠くに見える日蓮の黒い銅像の頭の部分が鈍い陽を受けている。
「こんな話をするために、忙し君を呼んだのではなかった」
「わかりました」
芦村亮一は別な表情になった。
「では、そのことは、もう、お訊ねしないことにします」
「ああ、そうしておくれ」
「叔父さんは、これからどうなさるんですか?」
「日本に居ろ、というわけだね!」
「もちろん、それに越したことはありませえん」
「わたしも、事情が許せば、日本に居たいと思っている。やはり日本はいい。だから、こうして幽霊みたいにのこのことやって来たのだ」
「日本の風景だけを見物にですか?」
「・・・・」
「孝子叔母さんには、お逢いにならないんですか?」
「ばかなことを言う」
顕一郎は淋しく笑った。
「あのひとはね、わたしという者が死んで、この世で独りになっている。お盆ではあるまいし、今ごろ亡霊が女房のところに顔を出すわけもないだろう」
「しかし、叔父さんは、ぼくだけには逢いに来られた」
「君だから逢ったのだ。これが女房や娘であってみろ。とても呼び寄せられた義理ではない」
「ですが、叔父さんは、久美子にはお逢いになっている」
「逢った」
と低い声で言った。
「君は前から知っていたのか」
「知っていました・・・・叔父さんが、孝子叔母さんや久美子に逢われる前に、日本に来られたことを察していまし」
「ほう」
愕きが顕一郎の口から洩れた。急に亮一を鋭い眼で見た。
2022/11/21
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