~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-02)
「どうして知った?」
「節子です」
「節ちゃんが?」
「奈良の寺で、叔父さんの筆蹟を見て来たのです。唐招提寺に行ったとき、芳名帳で叔父さんの筆蹟を見ています」
「なるほど」
野上顕一郎は、しまったというように自分の指をはじいて、
「余計なことをしたものだ」
と言った。
「奈良に行った、つい、どこか分からないように自分の記念を遺したくなったのだが、つまらないことをした。ほれ、修学旅行の子供が、樹の幹や石にナイフできずをつけるようなものさ・・・あれを節っちゃんが知ったのか?」
「特別な筆蹟だからすぐ判ったと言っていました」
「そうだ、こりゃ自業自得だね。節っちゃんには、わたしの偏窟へんくつな文字をさんざん見せつけていたし、古い寺をまわるような年寄趣味を植えつけたのもわたしだった。そうか、あれで判ったというのか?」
弱っという眼つきだった。
「いいえ、そのときは、まだ半信半疑でした。まさか、と誰でも思います。外務省から正式に発表された死亡人が、生きているとは思いませんからね」
「申し訳ない」
「節子はそれを久美子にしゃべったようです。それで、もう一度、そのことを確かめに行った人があります」
「誰だ? まさか孝子ではあるまい?」
「添田という新聞記者です」
「何?」
きつとした眼になった。
「いいえ、新聞記者といっても、将来、久美子の夫になるかも知れない男です」
野上顕一郎は激動を抑えるようにポケットを探って煙草を取り出した。亮一にもすすめ、自分でライターで火をつけてやった。小指がかすかに震えていた。
「そうか、久美子にね」
青い烟が鈍い雲の下に拡がった。
「そりゃどういう男だ?」
と、今度は熱心な口調になった。
「ぼくも二、三回逢ったことがありますが、しかりした青年です。久美子の配偶者としても間違いないと思います」
「君、見てくれたの?」
「ぼくよりも、節子の方が気に入っています」
烟が顕一郎の唇からまた流れ出た。
「節ちゃんなら間違いはない。節っちゃんが感心しているのか」
野上顕一郎は、何度目かの視線で黒ずんだ松林の上を撫でた。帽子の廂の下に光っている眼がうるんでいるのを亮一は見た。
芦村亮一のほうが胸を詰まらせた。二人はしばらく声を出さなかった。通りがかりの者が見ると、ベンチに腰を掛けた二人の男が、ぼんやりと公園で疲れを休めているように映った。
2022/11/21
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