~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-03)
「久美子のことは」
野上顕一郎がしばらくして言った。
「君たち夫婦によろしく頼むよ」
「そりゃ、もう」
芦村亮一は眼の奥に熱を感じてきたので困った。
「出来るだけのことはします。孝子叔母さんも元気でいらっしゃることだし」
そう言って叔父を眺めたが、顕一郎の横顔はきびしくみえた。
「叔父さんは、孝子叔母さんをご覧になったとおっしゃいましたね?」
「実は村尾君が計らってくれた」
「日本にお帰りにおなったのの、村尾さんの蔭の尽力ですか?」
「わたしが勝手に戻って来たのだ。村尾君のせいじゃないよ」
「そうですか。それはどちらでもいいです。ただ、お聞きしたいのは、叔母さんをご覧になって、どうお感じになったかです」
取りようによっては、残酷な質問だった。だが、芦村亮一は叔父がその焦点から絶えず逃げていることを知っていた。ここで正面から見究みきわめねばならないような気持になっていた。
「・・・うむ。苦労させたと思って居る」
遠くを見るような眼差しで、声も低かったが、亮一には大きな音響に聞こえた。
「やはり、年をとられたとお思いになりますか?」
「別れてから、十八年経っているからな。当り前だ。わたしも頭が白くなった」
芦村亮一は感動が胸から噴き上げた。
しかし、そこには妻から逃げた男の利己主義が覗かれた。自分だけが隠れて、置き去りにした妻を覗いている眼のエゴだった。
「ぼくがそこに居合わせていたら、叔父さんだと判り次第、無理にでも叔母さんの所へ引っ張って行くところでした」
「おいおい、無茶を言っては困る」
顕一郎はうつろな笑い声をあげた。
「そんなことをしてみろ、大へんことになる。わたしは本当に死ななければならなくなるよ」
「あとのことはどうにかなります。とにかく、叔父さんは叔母さんの前に出て頂けばいいんdす。後の面倒なことは、みんなで処置します」
「有難う」
顕一郎は礼を言った。
「亮さんがそう言ってくれる気持はよく分かるがね。そう簡単にはいかないよ。それが出来たら、わたしは犯罪人のように人目を忍んで日本に帰りはしない。これは堂々と帰国する。それが出来ないのだ。何しろ昭和十九年に鬼籍に入った人物だ」
「そんなことは」
亮一は躍起やっきとなった。
「一向に平気です。戦死と公表された軍人が、ぞくぞくと生きて還っています」
「兵隊ならいい」
顕一郎は亮一の言葉を叩くように言った。
「戦場は一瞬にその人間の世界を遮断するからね。これは何があったって構わない。しかし、わたしの場合は違う。中立国に居て、万民がわたしの死を知っていたのだ。そう簡単には生還できないよ」
「しかし、現に、叔父さんは生きてここに還っていらっしゃる」
「議論にはならないね」
叔父はさじを投げたように言った。
「そんな無茶を言うと、わたしは君と会ったのを後悔したくなる。亮さんなら男だし、わかってくれると思っていた」
芦村亮一は、はっ、となった。叔父の言う「男なら」の一語が胸を突いた。この言葉は同時に、自分だけがこの叔父から一番遠い存在だということの指摘にもなっていた。
孝子や久美子、節子は、みんなこの叔父とは血のつながりがあった。女だから取り乱す惧れがあるというだけではなく。亮一なら冷静になれる、と叔父は判断していた。ただ性別の問題だけではなかった。
2022/11/22
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