~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-04)
「亮さんなら、わかってくれるはずだ」
顕一郎は、亮一が黙っているので、つづけた。
「わたしは、本来なら、君の前にも姿を出すべきではなかったのだ。事実、今度、日本に帰って来るときも。そういう決心だった。不覚だが、日本の土地を踏んでみて、その決心がぐらついたと言えよう。どう説明したらいいか。つまりだな、わたしが生きているということを、自分の身内の誰かにそっと知らせておきたかったのさ・・・・」
公園の下を人が歩いていた。顔がこちらを見上げている。だが、それは二人の方を見ているのではなく、そのうしろに聳えている亀山上皇の銅像に眼を向けているのだった。
「そこが生きている人間の煩悩ぼんのうだな。まだ悟り切っていないのだ。自分のことを誰かに知っておいてもらいたい。誰にも知られないには、やはり淋しい・・・こういう煩悩さ。そこで、そういう人間を探すとしたら、やはり亮さんしか居なかったという次第さ」
顕一郎はつづけた。
「だから、むろん、わたしに逢ったことも、亮さんだけがその胸の中に収めておく。決して誰にもこのことを言わない。亮さんなら、わたしの頼みをいてくれると思っていた」
「ぼくは」
と芦村亮一は肩で太い息をした。
「その自信がなさそうです」
「おや、じゃ、誰かにしゃべるというのかい?」
「自分の気持が承知しないと思うんです。自制が出来なくなるんじゃないかと思いま」
「君なら大丈夫だ。君だって、わたしがそう頼まなくとも、わたし会ったこは孝子にも言えないだろうし、久美子にも打ち明けられないだろう。節っちゃんだってそうだ」
「・・・・」
「わたしの我儘はわかっている」
「いいえ、叔父さんは、おそろしく自分に打ち克っている人です」
「そう見えるかね? それだったら、わたしは君にも逢わなかっただろう。そして、日本を去ってから、君に逢わなかったこと、ああ、いいことをした。やっぱりおれは強い、と思うに違いない。それが出来ない人間なのだ。わたしは日本から離れた瞬間に、君に逢ったことをきっと後悔する。そう思いながらも、こうしてのこのこ正体を見せたのだ」
「もう、これきり、ぼくに逢っていただけませんか?」
「一度きりで沢山だろ。二度も、三度も逢っていては、亡霊の神秘性がなくなる」
「それじゃ、あまり叔母さんや久美子が可哀そうです」
「常識的なことを言うね。亮さんがそんなことを言うとは思わなかった。君は医者だろう。科学者だ。感情だけでものを言ってはいけない。実は、わたしが感情家だから、君だけはその冷静さを求めているのだ」
「しかし、叔父さん。節子もですが、本当は久美子も、叔父さんのことを感づいていますよ」
瞬間に、野上顕一郎の顔がこわい表情になった。それまで、どこか楽なものの言い方だったのが、急に余裕をなくした。身体まで動かなくなった。
「そうか」
唇だけがわずかに動いて、それから言葉が洩れるような言い方だった。
「そうじゃないかと感じていたがね」
「むろん、久美子は、ぼくらには何も言いません。しかし利口りこうな子ですから、それは感じ取っていると思います」
「一体、それはいつからだ?」
急いで訊いた。
「久美子は笹島先生のモデルになって、画伯にデッサンをとられていました」
亮一は、自分を見つめている叔父の眼を受け止めて言った。
「おの絵が、画伯の急死でわからなくなってしまったのです。ところが、その後、ある女名前で、そのデッサンを渡すから、京都の南禅寺まで取りに来てくれ、という手紙が来たのです。久美子は、その手紙の通りに指定された場所へ行きました。ところが、相手の女は現れず、むなしく東京に引き返して来ました・・・この辺から、久美子は、変だな、と思ったのです」
「うむ」
顕一郎は眼を元の松林に戻した。
「変だな、というのは、その妙な手紙のうしろに父親がいる、と想像したのかね?」
「はっきりとは判りませんが、お父さんの影を感じたのではないかと思います」
「久美子は、独りで京都へ来たのか?」
「いいえ、不安でしたから、ぼくの考えで、警視庁の警官に付いて行ってもらいました」
「ぱっぱりそうだったのか」
「やっぱりですって?」
亮一は愕然がくぜんとなった。
「では、叔父さんがそうしたのですか?」
野上顕一郎は顔を俯向うつむけた。はじめて、眉の間に深い皺が寄った。苦痛の色がありありと見えていた。
2022/11/23
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