~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-05)
「手紙はわたしが出したのではない」
顕一郎は咽喉の奥から吐き出すように言った。
「わたしに引き合わせようとした人のしたことだ。しかし、責任はわたしにある」
「やはり村尾さんか、滝さんですか?」
「名前を出すのは遠慮しよう」
「・・・・」
「手紙は、久美子だけに来てもらいたい、と書いたそうだな。つまり、わたしという人間の持っている秘密性に、その人の配慮があったわけだ。他人に洩れてはいけないことだからな。だから、そういう用心深い約束になっていたのだ。いや、約束とは言えないな。一方的な指定だ。ところが、久美子だけでなく、そのうしろに妙な男がちらちらしていた。君が親切に計らってくれた警察の人だ」
「ああ、それでいけなかったのですね?」
「わざわざ、東京から京都まで久美子を呼び寄せて、悪いことをしたと思っている」
「そりゃぼくの責任です」
亮一は遮るさえぎように言った。
「ぼくが余計なおせっかいをしたからです」
「いや、亮さん、それでいいのだ。君が久美子のためにせっかいを焼いてくれるのを、わたしは有難いと思っている。先ほども、よろしく頼む、と言ったが、ここで改めて、亮さん、その気持ちにお願いしたい。君から聞くと、久美子は、どうやら仕合せな結婚をするらしい」
「・・・・」
「不思議なものだな、新聞記者というものをあまり好きじゃないわたしが、その話を聞いた今から、急にそうでもなくなったのだから、妙なものだ。まだ当人は見たこともないが、なんだか、顔つきまでがぼんやりと想像できそう。そう聞くと、何となく、もう、父親の気持が湧いてくるから、おかしなものだな」
「日本には」
と亮一は言った。
「叔父さんを迎える人の手が一ぱい待っているんです。叔父さんに都合が悪かったら、この人たちは、どんな秘密も守ります。叔父さんを表に出さないで、こっそりとどこかに隠しておくことも出来ます。死んだつもりの余生を、ひっそりとした生活にお過ごしになるつもりはありませんか? みんな、そのためには、どんな努力でもします」
「亮さん、たびたび言うけれど、そういう話は一切ないことにしよう。いつも、現在と言う時点からものを言ってもらいたい。逆戻りは出来ないのだ」
芦村亮一は叔父の顔を真直ぐに見た。
「日本には、あとどのくらい滞在なさるおつもりで?」
「長居は出来ない。わたしはただの観光客として来た。帰郷した人間ではない。すぐに日本を離れるのが当然だ」
「予定は?」
「そんなものは決めていない。だが、なるべく早いとこ離れたい」
「お独りで来てらっしゃいますか?」
「何?」
思いなしか、野上顕一郎の表情に狼狽があらわれた。
「何と言ったのだ?」
「日本にお独りでみえているんですか、と訊いているんです」
最初の問いは野上顕一郎の耳に届いていた。訊き返したのは、返辞を考える時間をもつためだった。いや、返辞は用意してある。しかし、その返辞を思い切ってい言っていいかどう、躊躇が湧いたのだった。
「独りだ」
思い切って言った。眉の間に苦渋くじゅうの色が浮んだが、ハンティングの廂の影がそれを隠した。
「もちろん、独りさ」
と重ねて言った。
「しかし」
と顕一郎はつづけた。
「日本を出て行っても、君には知らせないよ。ここで逢って、ここで別れるのが最後だ。今度は、ほんとにこっそりと出て行く・・・それに、わたしが日本に居ては悪いことが起こる」
「悪いことせすって?」
芦村亮一は聞きとがめた。
「どんなことです」
「具体的にはどういうことかは言えないね。何となく、そんな予感がするだけだ」
「叔父さん」
と亮一はきつい眼つきで眺めた。
2022/11/23
Next