~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-06)
「さっきお話しした笹島画伯ですが、久美子のデザインを描いた人です。この人が、急に原因不明の死に方をしています」
「・・・・」
「それに久美子が京都に行っている時、ホテルでピストル騒ぎが起こり、泊まっていた人が怪我したそうですね?」
「どちらもわたしの知らないことだ」
顕一郎は静かに答えた。
「笹島画伯というのは、わたしは遇ったっこともない」
「しかし、滝さんが久美子をモデルに頼んだんです」
「滝は知っているが、日本に帰ってからの滝とは交際がない。つき合いは、彼がヨーロッパに居る時だけだった」
「久美子が京都に行ったのは、叔父さんを知っている誰かの計らいだ。と今おっしゃおました。その京都のホテルで、ピストル事件が起こっています。射たれた人は、ぼくの知らない人です。新聞を取り寄せて読んでみたのですが、知らない人の名前でした。しかし、久美子が泊まった宿でそれが起こったということが問題です。笹島さんの場合も、久美子に関連がある」
「迷惑な話だ。そりゃわたしの話してる意味とは違う。わたしは、ただ、自分が日本に居てはいろいろな人に迷惑がかかったくると考えただけだ。なにしろ、外務省で死んだといっているんだからね」
野上顕一郎は、雲の方へ眼を向けながらつづけた。
「言い忘れたが、わたしが日本に帰って来た理由の一つは、寺島公使の墓に参りたかったからだ。実は、昨日、「やっとその宿望が遂げられてね。博多の近くだ。海の見える高い所でね。きれいな墓だった。お線香を上げながら、しみじみと思ったよ。やはり本当に死んでいる人は誰にも迷惑をかけないとね」
「・・・・」
芦村亮一は言葉がはさめなかった。
「わたしは、寺島さんには随分とお世話になった。お墓参りをしただけでも、日本に帰って来た甲斐があったと思ったよ。それだけでいいんだ。どうも、わたしは日本に長く逗留とうりゅうしすぎたようだ」
「叔父さん」
「うむ、何だね?」
「寺島公使は、向うで病気になられ、日本に帰られてから病死なさいました。きっとご家族や、親戚、友人にみとられながら息を引き取られたと思います」
「・・・・」
「叔父さんの場合だってそうだと思います。新聞によると、スイスの病院で亡くなったと出ていました。入院していたとすれば、多勢の医者も看護婦も知っていたことになります。それがどうして死亡になったのか。いや、そのことを医者がどう納得したかです」
野上顕一郎は、また元の茫乎ぼうことした表情に戻っていた。
「それとも、叔父さんがスイスの病院に入ったということ自体がかくみのだったのですか?」
「言えないな」
ぽつりと答えた。
「じゃ、もう一つ訊きます。当時、現地には、村尾さんも、その他の館員もいました。それに、スイスには、当時の特派員として滝良精さんが居ました。ところが、村尾さんも、滝さんも、叔父さんの帰国を知っています。少なくとも、村尾さんは、叔父さんに叔母さんや久美子さんを見せているんですから、否定は出来ない筈です。滝さんにもそんな挙動が見えます。ほかの館員の人は知りませんが、少なくとも、この二人は、叔父さんの生存を前から知っていたのです。これはどういう理由わけしょう?」
「亮さん、その話は黙っていることにしよう。君はあまりに好奇心が強すぎる。なぜ、なぜって、まるで子供のように訊くんだからな」
「極めて単純で素朴な疑問です。しかし、重大な疑問です」
「止そう。わたしは君を呼んだのを後悔しはじめている。わたしが軽率だったのかな」
「誰のもいうな、とおっしゃるなら、その約束は守ります。しかし、ぼくを信頼されて、ここに呼んで下さった以上、ぼくの納得のいくようなお話しを伺いたいものです。それは、叔父さんのぼくへ対する義務だと思うんですが」
「亡霊に義務はない」
野上顕一郎は平気で言い切った。亮一が唖然あぜんとなったくらいである。
「元来、亡霊というやつは、勝手なものに出来上がっている。自分の好きなところに現れて、自由に引っ込むようになっているようだ。君をここに呼んだのも、わたしという亡霊の勝手だし、その理由を、いや、君のいう義務を果さないのも、そいつの特権だ」
2022/11/23
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