~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-07)
野上顕一郎は、はじめてベンチから腰を上げた。
「いい景色だね。日本的な眺めだ。こういう場所で、いま、亮さんと逢って話してるのが嘘みたいだ。日本に来る時は、こういう場面を予想しなかったがね。しかし、それだけに、ぼくは向うに帰っても、kの光の色と、亮さんの声とが、いつまでも、頭の中に鮮烈に生きているだろう」
亮一が叔父のうしろからった。
「叔父さん、叔父さんは、実はぼくではなく、久美子に逢って行きたかったんでしょう?」
亮一はわざと叔父の顔を見なかった。外国の風の染み着いた洋服の背中を見たままで言った。
「久美子は、ぼくがれて行きます。叔父さんが隠れ蓑を着けたままにしたいとおしゃれば、そのつもりでそっと伴れて行きます。当人は何も気づかないようにもします」
「・・・・」
「それだけはぼくにさしてくれませんか。秘密は絶対に守ります。叔父さんの気持を聞いてからは、叔母さんにも、節子にも、何も言えたものではありません。おそらく、生きている叔父さんと出遇ったということは、ぼくが墓場の中に背負って行くだけだと思います」
亮一は懸命につづけた。
「ですから、その連絡の方法をぼくに指示して下さい。どんなことでも、それに従います。叔父さんは久美子に、歌舞伎座でちょっとお逢いになっただけでしょう。いや、それは逢ったとはいえない。ちらりと見ただけです。それから、叔父さんの手許には、笹島画伯が描いた久美子の顔があるはずです。しかし、叔父さんはまだ久美子と話をしていない。本当に逢ったとはいえないのです。叔父さんが話をし、久美子がナマの声で叔父さんに答える。そういう会話なしには叔父さんは諦められないと思うんです。それをぼくがやろうというんです」
「有難う、亮さん」
背中が答えた。立ったまま、貧乏ゆるぎもしない背中だった。
「折角だが、亮さんの気持だけを戴いておく」
亮一が眼をみはった。
「悪く思わないでくれたまえ。頑固のようだが、仕方がない。君の気持は、なみだが出るほどうれしい。しかし、そりゃ受けない方がいいのだ」
「しかし、もう二度と日本には来られないのでしょう?」
「来ない。いや、来られないだろう」
「ですから、これは一生に一度の機会です」
「わかっている。事情が許したら、わたしは、すぐ、亮さんのいう通りになる。久美子は可愛い。そりゃずっと離れているだけに、余計に可愛いのだ。わたしは向うで暮らしていても、久美子の夢を見ている。こんなに大きくなった久美子ではなく、まだ幼い姿だ。わたしの膝にもたれかかってくる久美子だ。 そうだ、こんなことがあった。ある朝、わたしが眼をましてみると、わたしの蒲団の胸の上に、ちょこんと久美子が来て坐っているんだな。あれはたしか、二つぐらいの時だった。びっくりしたものだ。猫が来て坐ったように重量も感じないのだ。それだけにふいと眼を開けて、人形のようにちょこんと坐っている久美子を見て、これが自分の子かと思ったくらいだ。そのときの印象があまり鮮やかすぎて、夢というと、よくそれが出て来る・・・」
「ですから余計に・・・」
亮一は声を詰まらせた。
「今の久美子と話をしろ、というのかい?」
顕一郎が引き取った。
「そうなるともう一つ、わたしに余計な夢見がふえる。幼い時の久美子と、大きくなった久美子とね。有難いが、あとで苦しむことになりそうだ。苦しいことに男でも、子供のことで苦しむのはやりきれない話さ・・・」
野上顕一郎は、煙草の蒼い烟を含んだ風の中にいた。
「変な話になった」
彼は言った。
「亮さんをわざわざ呼び出して、亮さんのいう通りにならなかったのは、すまなかった」
「いいえ、そんなことはありません。ぼくは一向にかまいません」
芦村亮一は、顕一郎と肩を並べた。
2022/11/26
Next