~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-08)
松林の向うに、病院かホテルかとも見える白堊はくあの建物があった。鈍い雲が、その白い建物の上に筋を作って重なっている。
「ただ、ぼくは、叔父さんがこのまま日本を出て行かれるのが残念で仕方がないのです。久美子や孝子叔母さまだけではんく、叔父さんの方が何倍か寂しいと思ってです」
「当り前だ。当人たちは、何も知らないんだからね。わたしの方が何十倍苦しいかわからない。逢って話してみたところで、その苦しみがえるだけさ」
「日本を出て、どこに行かれるのですか?」
「さあ、まだ当てはないがね」
「しかし、叔父さんは、他所よその国に、籍があるんでしょう? どこの国ですか?」
「教えてもいいが、それがわかると、君たちがそれを手がかりにして探すようになる。そりゃにんz人情だ。だから、わたしがどこの国の人間になっているか、返答するのは勘弁してくれ」
芦村亮一は叔父の横顔を見た。光線の加減か、最初に逢った時よりも、耳のうしろに白髪が多く見えた。
「叔父さんがスイスで死亡されたのは」
と彼は言った。
「昭和十九年でした。日本の敗色が歴然となっていた時です。そのとき、叔父さんの国籍が変わったとすると枢軸国ではあり得ない。連合国です。それも、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギーとしか考えられません。まさか、ソ連ではないでしょう。この四つの国のどこかで、叔父さんは市民権を持たれたのです。これは、野上顕一郎という外交官が現地で死亡した直後だったと思います」
野上顕一郎は煙草を捨て、手をポケットに入れた。この姿勢が、空から吹き下りて来る風に対って。肩をそび やかしているように見えた。
「叔父さんは、いわゆる、勝手にその連合国に逃避したのではありません。ちゃんと外務省で死亡と公表されているんです。このことは、叔父さんの行動が、日本の政府、特に外務省の首脳筋に了解があったと思わねばなりません。すると、叔父さんの死亡の意味は、叔父さん個人のものでなく、日本という当時の国の運命につながっていることになります・・・」
「亮さん、もう、止してもらいたいね、古い話だ」
「いや、ぼくはもう少し言わせていただきます。ぼくは一介の医者です。政治のことも、国際情勢も、何も深い知識があるわけではありません。ただ、叔父さんの行動と、外務省の発表とを付き合わせて考えると、どうしても、そこに結論が落ち着くことになります」
「ほう、どういう結論だね?」
「ぼくの臆測です。叔父さんは日本の犠牲になったと思うんです」
「大そうなことだ。わたしはそれほどの人間でもなく、実力もなかった」
「叔父さん自身の評価は別として」
と亮一はつづけた。
「とにかく、当時の日本には、出先外交官の誰かに“死亡”してもらう必要があったといえましょう。ポッタム宣言が出たのは、一九四五年七月でした。つまり、叔父さんが死亡してから一年のうちに、その宣言が発せられたのですが、草稿は、もっと前から準備されていたと思います・・・」
「何の話か知らないが」
野上顕一郎は少し苛立いらだたし気に遮った。
「そんな詮索を亮さんにしてもらうため、このに呼んだのではない。わたしは、ただ、亮さんにだけ、わたしのい生きていることを知ってもらいたかったのだ。わたしはこうして君の前に立って居る。これだけを認めてもらえばいい。さっきも言っただろう。話は現在の時点にだけ限定してもらいたい、過去に戻ることはない」
「しかし・・・」
「もう、いい、もう、わたしは気が短くなっているのでね。あまりしつこく訊かれると怒るかも知れない」
亮一は黙った。
2022/11/26
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