~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (20-09)
東公園のきれいに揃った松林の上に、鳥の群が飛んでいた。
「いや、乱暴なことを言ってすまなかった」
野上顕一郎は、自分の声にはっと気づいたように謝った。
「亮さん、ここで別れよう」
「いいえ、叔父さん、ぼくの言うことはもう少し残っています」
「聞きたくない」
「勝手に言わせてもらいます。叔父さんは、そうして当時の日本の犠牲になった。ぼくが言いたいのは、そのことの原因ではなく、そうした立場に追い込んだ日本が、叔父さんを迎え入れないことです。叔父さんを殺したまま、あとは知らぬ顔をしていることです・・・当時の責任者の高官は、戦犯として処刑されたのもいますが、戦後、復活している人もいます。現に、指導者として大きな顔をして、大手を振っていつ人もいるんです。叔父さんのことを知らぬ筈がない。その人たちが、野上顕一郎という犠牲者をそのまま放っていることです」
芦村亮一は激していた。
「そりゃ無理だ」
野上顕一郎は思わず言って、はっと自分の言葉を抑えた。
「いや、これは、君の考えていることを実際のことだと前提してのことだがね。たとえ、その仮説が成り立っていても、当時の大日本帝国が“死亡”と公表し、新聞にもそのことを報道したのだ。軍人じゃないよ。歴とした帝国外交官だ。今さら、あれは間違いでした、ともいえまい」
「いいや、それは出来ないことはないと思います。一人の人間を殺しっ放しにする理由はどこにもありません」
「ふむ、安価なセンチメンタルリズムだ。それとも書生論かな。わたしはきっぱりといっている。時点を元に戻すことは不可能だね」
「叔父さんは、そればかりを言っている。叔父さんこそ観念論者です。それとも、もし、そういうことになれば、現在の日本に怪我人が出るというのですか? それだけの配慮でしたら、やめていただきたいのです。日本は敗戦となった。何もかも秩序が変わったのです。一外交官が生きて帰ったぐらい何のことがありましょう」
「うむ、理屈は通っているね。君は、いま、日本は敗戦したといったね。だがな・・・」
言葉が少し切れた。
「だがね、日本の敗戦の片棒を担いだ外交官がいたとしたら、どうなる? これは獅子身中の虫だ」
そこまで言って、顕一郎はあとの言葉を絶った。糸が切れたように、あとの声を絶ったのである。
「叔父さん」
「もう、いい。やめだ」
顕一郎は姿勢を変えた。亮一と真対まむかいになった。
「随分、時間が経ったようだ、せっかくの学会をスポイルさせて悪かった」
「そんなこと、ちっとも構いませんが」
「いや、学問は大事にするものだ。それに、いつまで此処に立って居てもはじまらない」
野上顕一郎は二、三歩歩き出した。
「亮さん、じゃ、失礼する」
「叔父さん」
亮一はうしろから追った。顔がゆがんでいた。
「元気でいてほしい。それから、くどいようだが、久美子のこともお願いする。孝子もだんだん年を取ってくる。あれの分もよろしくい頼むよ」
「もう、絶対にお逢い出来ないのですか?」
「多分、そうなるだろう。節ちゃんにもよろしく、といいたいが、これは、君の口から伝えては困ることだ。ぼくの気持だけを、君が心にしまってくれていればいい」
「そこかで、どこかで・・・孝子叔母さんや久美子に気づかれないように、叔父さんが来てくれませんか。どのような計らいでもします」

「有難う・・・そういう気持になったら、手紙を出してお願いするかも知れない。だが、今のところ、その意思はない」
野上顕一郎は、亮一がいて来るのを手を挙げて止めた。
「独りで帰ったほうがいい。君はそこに残っていてくれ」
この意味は、芦村亮一にやがてわかった。別れる人を見送るには、歩いて行く姿を、そこでじっと立って眺めているに越したことはなかった。
野上顕一郎のうしろ姿が、銅像の台地から石段を降りて行く。その行く手に、芝生の地面と、松林と、空に展がっている雲とがあった。
やや前屈みになったそのうしろ姿は、一度も振り向きもせず、石段を降り切ってから、散歩者のような足どりで広い地面に小さくなって行った。
2022/11/27
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