~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-01)
芦村亮一は、福岡の学会から東京に帰った。
「お珍しいわ」
その晩、節子が亮一のすることを見て微笑した。
亮一は帰宅すると直ぐに、電話で孝子を呼び出したのである。それもまだ着替えの済まないうちだった。
出張から帰って、彼が報告を兼ねて孝子に電話することはこれまでもあった。しかし、まだ洋服も脱がないうちに電話をかけるのは初めてだった。
「叔母さんですか?」
と亮一は電話口で言っていた。
「いま、福岡から帰ったんです。留守中は、どうも」
節子には聞こえないが、孝子が、お疲れ様でした、と挨拶しているらしい。
「お元気でしたか?」
と亮一はわざわざ訊いていた。
この訊き方も変だ。長い間、逢わない人に挨拶しているみたいだった。それに、夫の声もただのお座なりでなく、どこか真剣なところがあった。
「そうですか。で、久美子さんは、どうです」
節子がうしろで、
「いやだわ」
と呟いた。夫がふざけているとしか思えなかったのである。
「君」
と夫は先方の返辞を聞いて、受話器をもったまま、節子を振り返った。
「明日の晩、君の都合はどうなんだ?」
「何ですの」
節子は愕いた。
「杉並の二人を呼んで、君と一緒に食事をしたいと思っている。久し振りにTホテルへ行こう。あすこのグリルがいい」
「そりゃ結構ですけれど」
唐突だった。節子がどぎまぎしたぐらいである。夫はどちらかというと学者らしい慎重な正確だった。こんなに早急にことを決める性質たちではない。
「明日の晩ですが」
と亮一はもう電話口に言っていた。
「節子と二人で、叔母さんと久美子さんとをお呼びしたいんです。久し振りですから、Tホテルのグリルで夕食をりましょう。ご都合はいかがですか?」
孝子の返辞を聞いているらしい亮一が、
「そうですか。じゃ、夕方の六時半からにしましょう」
と話していた。
節子があわてて、そのあとの受話器を夫から取った。
「叔母さま、節子です。どうも」
孝子の声が節子の耳に流れた。
「いま、お聞きになったでしょ。芦村が九州から帰る早々にそんなお誘いをかけたんですの」
「そりゃ有難いけれど・・・何でしょうね、急に?」
「わたくしも」
と節子は受話器を持ったまま笑い出した。
「びっくりしましたわ。だって、しきいまたぐ早々、お宅にお電話したんですもの。きっと、九州の出張で何か感じたのかも知れませんんわ」
亮一が、瞬間、はっとした眼になった。
「でも、叔母さま、本当におよろしいの?」
「ええ、ええ、わたくしは結構よ。久美子はいま出ていますけれど、きっと、大丈夫だと思うわ。二人でお招きにあずかります」
「そうですか。芦村が折角ああ言うのですから、ぜひ、お願いしますわ」
「はい、はい、では、明日の晩六時半ですね」
亮一が妻のうしろから声をかけた。
「こちらからお迎えの車を持って行く、と言ってくれ」
節子はその通りに伝えて、電話を切った。
「叔母さま、びっくりしてましたわ」
と夫の着替えを手伝いにかかった。
2022/11/28
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