~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-02)
「愕くことはないだろう。夕食の誘いぐらいで」
「だって、いつものあなたらしくないんですもの」
「ぼくだって、ときにはこういう思いつきを不意にすることがあるよ」
「お珍しいのね・・・でも、嬉しいわ。久し振りに御馳走が戴けて」
節子の声がはずんでいた。
「九州は、いかがでした?」
彼女は夫の上衣をハンガーに掛けながら訊いた。
「べつに」
と亮一の声は平静だった。
「学会だから、同じ調子だ」
「そうそう」
と急に彼女は夫に礼を言った。
「思いがけなく福岡からお電話いただきまして、どうも有難う。不意でしたから、余計に嬉しかったんです」
夫が出張先から電話をかけてきたのも初めてだし、九州に行ってからは、たしかにいつもの彼とは違っていた。
「向うでは、どなたかお遇いになりまして?」
「だ、だれのことだ?」
亮一の声がちょっと狼狽うろたえた。
「皆さまお集まりになったんですから、お珍しい方もいらしたでしょ」
「うん、そりゃ・・・そうだ、東北大の長谷部はせべ先生にお目にかかった。久し振りだったな。この前、京都での学会には見えてなかったが、今度は元気になられて、わざわざ九州まで来られたのだ。あの年齢とし だが、病後のやつれもない」
亮一は熱心に話した。
「そりゃ結構でしたわ。そうそう、京都といえば、あなたとご一緒したときを思い出しますわ」
亮一は黙った。
「風呂、沸いているか?」
と夫は無愛想に訊いた。
「はい、ただいまお加減を見て来ます」
節子は夫の機嫌の変化にとまどいながら部屋を出た。
妻が去ると、亮一は帯をゆっくりと腰に蒔いていた。
福岡で叔父の野上顕一郎に出遇った興奮が、まだ胸の中に残っていた。それは節子の顔を見て再び燃え上がったと言っていい。口から言い出せないことが、胸の中で内攻ないこうした。真実を話してはならないが、何かの仮象かしょうで少しでもそれを伝達したかった。
急に孝子に電話したのもそのためだった。福岡から東京に帰ってすぐ孝子の声を聞くこと、孝子に話しかけるkと ── それがせめてもの彼なりの気持の伝達であった。もちろん、相手は何のことかわからない。亮一だけの意思表示なのである。
亮一は、出来るなら、孝子も、久美子も、いや、妻の節子も、野上顕一郎の実在に気づかないで、しかも彼の生存を知らせないで、その生存を信じるような話し方をしたかった。
むろん、そのような言葉の技術は不可能であった。
2022/11/28
Next