~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-03)
Tホテルのグリルでは、客のほとんどが外人だった。
芦村亮一の真向いに孝子はいた。久美子はすぐ左に、節子は右横にいた。
広いグリルで、食事の間にも絶えず楽団が静かな音色を流していた。
「ほんとに、今夜は思いがけないたのしみをさせていただきました」
孝子が言った。食卓はコースの半分まで進んでいた。
「ときどき、こんんじゃ気紛れが起るんですの」
節子が笑いながら叔母に言った。
「あら、こんな気紛れなら結構だわ」
久美子がナイフを動かしながら皆を笑わせた。
「これから、たびたび気紛れを起こしていただきたいの」
「実はね」
と亮一は言った。
「福岡の学会が済んで皆で食事をしましてね。そのとき、東京に帰ったら、皆で集まりたいと思ったんです」
「うちに帰る早々、すぐにお電話したんです」
と節子は注釈を入れた。
「でも、変な電話。お元気ですかって、まるで一年も逢わない人に言ってるみたい」
しかし、それは亮一の本当に言いたい言葉だった。元気かという言葉は、野上顕一郎を頭に置いて口から出たのだった。
こうして見ると、孝子は年を取ったと思う。いつも見馴れているので、老いの進行は分からないが、それでも亮一が節子と結婚した当時の孝子は、まだ三十代はじめの若さだった。遠い記憶が、今つつましげにフォークを持っている彼女の顔に重なってくる。
久美子も大きくなったと思う。ずっと前、久美子を呼んで、こんあ食卓を囲んだことがあるが、その時は、この椅子に可愛い脚をぶらぶらさせていたものだった。まだおカッパだった時代である。
亮一は、こういう場面を野上信一郎がどこかで見ていたら、どのような顔をしているだろうと思った。彼は思わず辺りを見廻した。無作法にならない程度で、そっと客の顔を眺める。どのテーブルも外人ばかりだった。銀髪であから顔の紳士、肥った外国婦人、背の高い男と女 ── この位置から重なり合って見える客のどこかに、野上信一郎が外国婦人とひそかにテーブルに着いているような錯覚が起きた。
「外国人の方が、やっぱり多いのね」
久美子が亮一につられて、やはり客席を見廻していた。
が、その言葉は軽かったが、彼女の表情には重たげな真剣さがうかんでいた。
亮一は、そんな久美子の表情にふと気がついた。
(久美子は、あれを知っているのではなかろうか)
京都での経験である。久美子が寺で遇ったというフランス婦人、Mホテルの真夜中の出来事・・・節子から聞いたことだが、今から思い合わせると、その数々の材料から、久美子もあのことにおぼろげながら気づいているのではなかろうか。
間接光線の仄白ほのじろい加減のせいでもあったが、孝子の顔は白磁のように澄んでいた。
(この人は、何も知っていない)
その点、久美子とは違っていた。静かで落ち着いたものだった。
亮一は、孝子のこの静寂を乱すことはないと思っている。
しかし、実は、彼は先ほどから自分の気持が或る不安で動揺していることに気づいていた。ふいと叔父にであったことを出遇ったことをしゃべりたい衝動にかられ、その都度つど、はっとするのである。
もし、ここでそのことを孝子や久美子に話したら、一体、どんなことになるだろうか。そのときの彼女たちの歓びを自分の眼で見たかった。彼が想像する以上の場面になるに違いなかった。
亮一は、次第に自分自身が恐ろしくなって来た。叔父に遇ったという言葉が、自分の意志でなく、ひとりでにほとばしり出そうな恐怖を覚えた。胸の中に渦巻くようなものが堆積たいせきしていた。
ここに孝子と久美子を誘ったのも、いわば亮一のひそかな自分なりの意思の伝達だった。叔父が無事に生きて、しかも、いま日本にきている。そのことを沈黙の間に伝えているつもりだった。むろん、ひとり合点は承知の上だ。
同時に、そのことは、彼が、どこに居るかわからない野上顕一郎の代理人の位置にいることでもあった。
(叔父さん、見て下さい。叔母さんはこんなに元気です。久美子もこんなにきれいな娘になりました)
彼の心は両方に話しかけていた。
2022/11/30
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