~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-04)
亮一は、雑談するのも恐ろしくなった。自分の言葉がどうひとりでに変わってくるか分からないほどである。彼はなるべく三人の聞き手に廻ろうとした。
しかし、これも苦しいのである。聞き手になると、自分の眼が対手にたいして観察的になった。話よりも、その顔、身体、眉やまつ毛まで見つめている自分になるのだった。
彼は、いっつか自分が野上顕一郎になり切って、孝子や久美子に逢っているような錯覚が起きた。
唐突なことだが、亮一は学生時代に読んだ外国の小説を思い出した。たしか「おしゃべり心臓」という題だったと思うが、人間は胸に持っているものをしゃべりたくてしゃべりたくて堪らない、といった心理をテーマにした小説だった。これは強い意志で止めようとしても抑えることが出来ない、という話だった。
亮一は、自分の現在がその主人公だと思った。いや、実はそれ以上なのだ。単なる告げ口ではない。これは叔母と久美子とを一瞬のうちに救うことだった。十八年間、孤独に苦悩して来た孝子を、瞬時に生き返らせることだった。久美子もそうなのだ。父が生きているとはっきり聞いたら、彼女の持っているどこか孤独そうなかげも、瞬間に消え失せてしまうだろう。
亮一は、その誘惑と必死に闘っている自分を自覚した。顔では三人と明るい話を交している。しかし、心では激烈な闘いを演じている自分だった。女房にも打ち明けられないことだった。彼は、、現在、いかなる名優も及び難い苦しい演技をつづけていた。
「ああ、悪いことをしたわ」
傍の節子が小さく叫んだ。
「添田さんをここに及びすれなよかったわ。恰度、いい機会でしたのに」
この言葉が亮一の地獄を救った。
「そうだったな」
と彼は強く妻に同感した。
声までひとりでに大きくなった。
「今からでもいいじゃないか。まだ社に居るかも知れない。ここだと近いから、間に合うよ」
「だって、、食事はもう終わりましたわ」
久美子がうすく赧くなった。
「大丈夫だよ。お茶には間に合う。御馳走はまた別な機会として、話だけでもいい」
「そんとにそうだわ。ここにお呼びしましょうよ」
節子が言った。
孝子は久美子の方を見ていた。
「久美ちゃん」
亮一が言った。
「すぐ電話しなさい」
久美子はちょっと照れたように渋っていたが、母に相談するような顔を向けた。
「お呼びしたら」
孝子は微笑していた。
「じゃ、電話してみますわ」
久美子は椅子を引いたが、ロビーのテーブルの間を歩いて行くうしろ姿ははずんだような足どりだった。
しかし、彼女は元気のない歩き方に変わって戻って来た。
「添田さん、もう、社をお帰りになったんですって」
2022/11/30
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