~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-05)
添田彰一は、野上顕一郎が生きていると信じた。
当人は昭和十九年にスイスで死亡していることになっている。官報もそのことを発表し、当時の新聞にも出ている。あり禹べからざることだったが、現象は彼が生きていることを指向していた。
なぜ、当時の大日本帝国政府が在外公館の外交官を死亡と発表したか。その理由も、いまの添田にはおぼろに分かるのだ。いつぞや、村尾課長を訪問して、野上一等書記官のことを訊いたとき、そのことならウィンストン・チャーチルに聞け、と放言した。ただの冗談ではなかった。苛立いらだって不意に洩らした村尾課長の放言が、実は野上顕一郎の死亡の真相をいている。
野上顕一郎は確かに生きている。しかも日本に来ている。フランス人ヴァンネード氏として再生している。現在、どこに居るかわからない。しかし、まだ日本を立ち去っていない。
このことを前提とすると、事件はもう一度初めから考え直さなければならない、と添田は思った。
これまでさまざまに考えてきたが、そこにはまだ前提となる何ものもなかった。だが、ここに野上顕一郎の生存という大きな標柱打ち立てると、問題の解明は別な方式に変わってくる。
添田彰一は社を早く出ると、静かな場所を求めた。彼は有楽町の近所で一番流行はやらない喫茶店をえらんだ。片隅に腰を下ろし、いつまでもねばった。客は静に来て静かに去って行く、そういう店だった。
── 添田が郡山こおりやまに行って伊東の家の家族に会った時、養子の嫁は確かにこう言った。
(そうだす。おとうはんはお寺参りが好きで、ときどき、奈良あたりに遊びに行きやはりました。そうそう、上京の前ごろから、一だんと多うなりましたわ。そんで、その日は、夕方、帰りはったが、なんや知らん、えろう考えて、自分の部屋につくねんと閉じ籠っていやはりました。それからだんねん、急に、わいはこれから東京へ行って来るさかいと、言い出しはったのは・・・)
そのふさぎ込んで考えていたというのは、野上顕一郎の生存を寺の筆蹟で知った時であろう。そして、急に上京を思い立ったのは、野上顕一郎を求めて行ったものと思う。
この時の伊東忠介ただすけの衝動は、たしかに死んだと信じていた人間が生きていたという事実に突き当たった時の驚愕なのだ。
しかし、伊東忠介が世田谷の奥で死んでいたのはどのような理由だろうか。彼が他所よそで殺されて死体を遺棄されたのではないことは、当時の警察の検証でもわかっているとすれば、彼は誰かと一緒にその近くに行ったのだ。あるいは、誰かに教えられた単独に行ったともいえる。柔道四段だった元陸軍武官の彼が、そう易々やすやすと暴力で用のない場所に連れ込まれるとは思えない。彼はそこへ行くだけの理由があったのだ。つまり、添田が当時もそう考えたように、伊東忠介は誰かを世田谷の奥に訪ねて行ったのだ。
添田は自分の手帳を出して昭和十九年の××国公使館員の名前のところを開いた。職員録から書き抜いたものと彼自身の調査のメモで、これまで何度となく見たページだった。
公使寺島康正(死亡)、野上顕一郎(死亡)、村尾芳生、門田かどた源一郎げんいちろう(書記生、死亡)、伊東忠介。──
伊東忠介が世田谷の奥に行ったという理由は見当らない。どの人物も留守宅の住所は全く別なところだった。なぜ、世田谷の奥が伊東忠介を招いたか。
すると、添田の頭に、急に光線のようなものがひらめいてはしった。それは死亡とついている書記生の門田源一郎だった。
(門田は本当に死んでいるのだろうか)
これは、死んだ筈の野上顕一郎が生存していたという事実から、ここにもまた疑いが起こったのだった。連鎖的な疑惑だった。
門田書記生の死亡は、一体、どこで聞いてきたか。──
添田は、それが死亡と聞かされたのは外務省の或る役人に会った時だ、と思い出した。まだ、このリストの関係者の現在をしきりに知ろうとしていた頃である。
その役人は、添田が訊いた時、こう言った。
「門田君かね、あの男は死んだよ。たしか、終戦後、引き揚げて間もなく郷里の佐賀市で亡くなった筈だ」
この言葉から、添田は簡単に門田書記生を死亡と決定してしまったのだ。外務省の役人が同僚のことを言ったのである。間違いない、と信じたのだ。
しかし、もれはもう一度洗い直してみる必要があるのではなかろうか。もし、門田書記生が野上顕一郎と同じように生存していたとすると、伊東忠介の東京での行動は別な解釈になってくる。
もしかすると、門田源一郎は、終戦後、世田谷の方面に住んでいたのではなかろうか。
つまり、伊東忠介が殺された現場からそう遠くない地域にである。──
2022/11/30
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