~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-06)
新聞社のデスクに戻ると、同僚が彼を悪戯いたずらそうな眼で迎えた。
「添田君、惜しいことをしたな」
「何だね?」
「たった今、君に電話があった。きれいな女の声だったよ。野上という人だった」
「そうか」
「残念そうな顔をしているな。電話の人も、君が帰ったと言うと、がっかりしていたようだぜ」
野上久美子からだったと知った。
今ごろ、何だろう。時計を見ると、八時半だった。夜、社に彼女が電話をかけてくるのも珍しかった。
彼はすぐに久美子の家に電話を頼んだ。
「何度お呼びしても、お出になりません」
と交換台は答えた。
「お留守じゃないんでしょうか」
すると孝子も一緒に外出したのだ。電話は出先からかかったのだった。それだったら安心である。べつに心配したような変わったことも起こっていない。街に出たので誘ってくれたのかも知れなかった。
少し残念だったが、しかし、彼には仕事があった。
添田は交換台を呼び出して、すぐに九州の佐賀支局を頼んだ。交換台が訊き返したのは、東京から佐賀に電話することは滅多になかったからである。
支局が出ると、添田は、面倒なことを頼む、と前置きして、佐賀に住んでいた門田源一郎という元外務省の役人が、現在どうしているかを調べてくれ、と言った。
「佐賀のどこでしょうか?」
と先方が訊き返した。
「佐賀市としか分かっていないのです。何とか調べてくれませんか。戦時中、中立国に行っていた書記生ですから、市役所あたりに訊いてもらえばわかるんじゃないでしょうか」
添田は、門田源一郎の本籍を調べているひまがなかった。
「やってみましょう」
支局長は快く引き受けてくれた。
「明日と明後日あさってと、二日ばかり下さい。分かったら、原稿便で報告を出します。政治部の添田彰一さんですね?」
「ええ、よろしくお願いします」
添田は受話器を置いてほっとした。
これで報告が来るのに、あと二、三日かかる。添田は待遠しかったが、これだけはどうにもならなかった。
仕事は終わっていた。いつでも帰れるのだ。
しかし、添田は、帰る前に寄ってみるところが一軒あった。品川の旅館「井筒屋」だった。伊東忠介が郡山から上京して、最初に泊まった旅館だ。
添田彰一は、あの時、この旅館を訪ねて主人に会っている。伊東忠介が投宿していた当時の様子などを訊いたのも、この宿の主人からだった。
だが、いま添田は、もう一度主人に訊きたいことがある。それは、伊東忠介の口から、もしかすると「門田」の名前が宿で洩らされなかったかということだ。
伊東忠介は東京の人間ではないから、地理には詳しくない。
彼が世田谷の奥に住んでいる門田源一郎を訪ねたと仮定すると、何かの拍子にその名前が出なかったとは限らない。
少し調子がよすぎるが、何でも当たってみることだ。あのとき、主人がそのことを言わなかったのは、こちらがそれを質問しなかったからだ。
あの宿の主人にとってはさして重要なことではないから、余計なおしゃべりはしなかったのだろう。だが、こちらから言えば、あるいは思い当たることを言ってくれるかも知れない。
添田はこういう意味で、品川の「筒井屋」に一縷いちるの望みを託した。添田は社を出ると、品川へ直行した。「筒井屋」には、前に二度ばかり訪れている。駅には近いが、辺鄙へんぴな場所にわびし気な看板を掲げている旅館だった。構えはそれほど狭くないが、建物も設備も古い。
添田彰一は玄関に入った。
2022/12/01
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