~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-07)
「いらっしゃいまし」
声はうしろから聞こえた。
振り返ってみると、四十五、六ぐらいの背の高い男が法被はっぴを着て、しきりとお辞儀をしている。
この宿の下男らしい色の黒い眼の大きな男だが、丁寧なものだった。添田を客と間違えているので、彼は慌てて手を振った。
「ぼくは客ではないんです。御主人が居られたら、お目にかかりたいんです。添田といって、R新聞の者ですが」
「へえ、かしこまりました」
法被の男は、「筒井屋」という印半纏しるしばんてんの背中を見せて奥へ入った。
どうしたのか女中も出て来ない。すると、やがて二階から食膳を積み上げた女中が身体を反らせて降りて来た。この女中も、いまの下男も添田が前に来た時は見なかった顔だった。
「へえ、どうぞこちらへ」
法被の下男は奥から出て来ると、板のにきちんと膝を揃えて両手をつかえた。
添田は、その男のあとから奥へ向かう廊下を歩いた。
「どうぞ」
すぐ左手の襖の前で、下男はてのひらを突き出した。
「失礼します」
添田は襖を開けた。この前来た時に通された同じ部屋だった。
添田の記憶にある宿の主人は新聞を置き、眼鏡を外した。
「さあ、どうぞこちらへ」
濃い眉毛を開いて、すぼんだ頬に笑顔をつくった。
「また、お邪魔します、いつぞやはどうも・・・」
添田は主人の前に坐った。
「しばらくですね。どうぞ、何度でも遊びに来て下さい。今夜も何か・・・?」
と主人は添田の顔をよく見た。
「ええ、実はまた、同じようなことを訊きに来たんですが、例の伊東忠介さんのことです。お宅に泊まったお客さんで、世田谷で殺された方です」
「そうですか」
主人は苦笑した。
「まだ、あの事件はカタがついかないんですね?」
「はあ、とうとう警察の方でも、捜査を一応打切ったようです」
「わたしも新聞を読んでいましたが、どうやら、そんなことらしいですな。たとえ一晩でも、わたしのうちに泊まっていただいたお客さんが、あんな気の毒なことになったのだから、わたしも本当に他人のことのようには思われません」
主人は、しんみりととした顔になった。
「それでお訊ねしたいんですが、こちらに伊東さんが泊まったときに、世田谷の方へ行くということを言ってなかったですか?」
それは添田が前に訪問した時一度訊いたことだったし、今度はその念を押した恰好になった。。
「ええ、それは聞きませんでした。ですから、どうしてあんな場所に行っていたか、わたしどもには全然わかりません」
「それについてですが、伊東さんはあなたたちに、門田さんという名前を洩らしませんでしたか?」
「門田さんですって?」
主人は不思議そうな眼をして、添田の口許くちもとを見つめていたが、
「さあ、それは聞きませんでした。一体、門田さんというのは、どういうお人ですか?」
「死んだ伊東さんの友だちだと思います。これはぼくなりの想像ですが、伊東さんが、伊東さんが世田谷の方に行ったのは、その友だちの門田さんを訪ねたのではないかと思うんですよ」
「ははあ、そんな形跡があったのですか?」
「いえ、これはぼくの想像だけです。わたしがここに伺ったのは、伊東さんの口から門田さんと言う名前が洩れなかったかどうかを知りたいのです」
「そんなことは全然聞きませんでしたな」
訊かない方が普通だろうと添田は思った。考えてみると、そんなことを一々いうわけはないのだ。
用事は簡単に終わった。
添田はそのあと、主人と雑談して旅館の玄関を出た。
2022/12/02
Next