~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-08)
やはり伊東忠介は宿で「門田」の名前を洩らしていない。添田は万一の頼みを抱いてここに来たのだがやはりそれはなかったのだ。しかし、そのことをはっきりと確かめたというのはその意味では徒労ではなかった。
添田が表へ出ると、暗い横からひょっこり法被を着た下男が現れ、添田に目礼して通り過ぎた。
すると、添田はすぐに向うから見たことのある女の顔が歩いて来るのに出会った。彼が気付く前に女の方からお辞儀をした。
「いや、いつぞやはどうも」
伊東忠介が泊まったとき、その係だった筒井屋の女中だった。添田は、この前、彼女からいろいろ話を聞いて厄介になっている。
「また、やって来ましたよ」
「今度はどんなことですか?」
女中は笑っていた。
「なに、ちょっとしたことです。いま、ご主人に会って来ましたがね。そうそう、あなたにここで会えたのは、ちょうどよかった。あなたはあの伊東というお客さんが門田という名前を口にしたのを覚えていませんか?」
「門田さん?」
女中は国をかしげた。器量はよくないが顔が丸いので愛嬌がある。
「さあ、そんな名前は聞かなかったようですわ」
「そうでうか」
添田は最後のたのみの綱が切れたのを知った。
「いま、ご主人もそう言っていました」
「そうでしょう、わたしも聞いていませんから」
女中は手に買物包らしいものを持っていた。
「なかなか、お忙しいですね」
添田はお愛想を言った。
「何ですか、近ごろお客さまが見えるのが多くなりましたので」
「それは結構ですな。商売繁盛は何よりです」
このとき添田の頭に、ふとさっきの法被をた男の姿が浮んだ。
「先ほど、法被を着たおじさんみたいな人が居ましたが、あれもお忙しくなっておやといになったわけですね」
「あのおじさんですか?」
「そうです」
「いろいろ手が廻らなくなったので、旦那がや傭ったんです。おかげで、わたしたちは助かりました。でも半分は旦那が同情して雇い入れたようなもんですわ}
「ははあ、気の毒な身の上なんですね」
「何でも奥さんに逃げられて、子供を抱えて困っているんだそうです。店に来て何でもいいから働かせてくれと言ったので、旦那がしばらく置いてみる気になったんですわ。子供は家の方に置いて、ひとりで住み込んでいます。でも、それは、つい最近ですの」
「道理で、ぼくが前に来たときはいなかったと思いましたよ」
「そうでしょう。今日で一週間にもならないくらいですから」
添田は忙しい対手の手を停めたことを詫びた。
「どうもお邪魔しました。また何かあったら、伺いに来るかも知れません。そのときはよろしく」
「さようなら」
添田は駅の方に歩いた。
2022/12/02
Next