~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-09)
翌日、添田は久美子の家に電話した。
「昨夜は、残念でしたわ」
じかに久美緒が出た。
「芦村のお兄さまが、一昨日、九州の学会からお帰りになったんです。それで、お母さまとわたくしがTホテルにお誘いを受けたのです。食事がはじまって途中でしたが、お兄さまが、添田さんをお呼びしたら、とおっしゃったので。わたくしがお電話したのですわ。そしたら、もう、お帰りになった、ということでしたので、みんなで失望しました」
「それは失礼しました」
添田は詫びた。
帰ったわけではないのですが、ちょっと、外に出ていたんです。あれから直ぐにデスクに引き返したんですが、間に合わなかったわけですね。お宅からお電話を戴いたのと思って、一応、おかけしましたが、道理でお留守だったわけですね」
「残念でしたわ。芦村のお兄さまも、添田さんと何かお話ししたいことがあるようなんですわ」
「そうですか、九州からお帰りになったんですね?」
「ええ、福岡でした」
添田は「九州」という言葉に引っかかった。いま門田源一郎のことを照会しているのも、福岡ではないが、九州の佐賀だった。一種の暗合を感じた。
それにしても、芦村亮一が自分に何か話したいことがあるというのも珍しいことだった。これまで一度もなかったことである。
「芦村さんの方には、ぼくからお電話しましょうか?」
添田が言うと、
「そうね」
と久美子は電話の向うで考えている様子だったが、
「いいえ、それはわたくしが訊いてから、連絡しますわ」
と答えた。
なるほど、あまり馴染なじみのない芦村亮一に自分が直接電話するのも妙な具合だった。
「では、お待ちしています・・・そのうち。お宅に伺いますよ」
「しばたくお見えになりませんでしたから、母もお待ちしてますわ」
「よろしくおっしゃって下さい」
添田は電話を切ったが、久美子の声が耳についていた。芦村亮一が自分に話したいと言った言葉が意識に残っていたのであった。
2022/12/02
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