~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (21-10)
添田彰一は佐賀市局から報告が来るのが待ち遠しかった。
彼はもっと近い距離だったら、自分自身が行って調べたいくらいだった。だが九州となると、そう簡単にはいかない。すべては支局からの返辞を待つほかなかった。
二日でその返辞は原稿便の中に入ってもたらされた。
あのとき、電話に出た支局長が自分でザラ紙に報告を書いてくれたものだった。
「先日ご依頼の件を左の通り報告します。お訊ねの門田源一郎氏は市役所その他で調査したところ、佐賀市水ヶ江みずがえ町××番地に居住されていたことが分かりました。早速局員を差し向けて調べましたところ、同氏には死亡の事実がありません・・・・」
ここまで読んで添田はびっくりした。微かな疑念は持っていたが、それが的中したのだった。
あのとき外務省の役人から聞いた言葉で門田の死亡を信じていたのだ。人間の心理は一度思い込むと、絶対間違いないものとして少しの疑念も起こさぬことが多い。この場合がそうだった。役人から聞いたことを、添田は絶対の事実としていたのだ。
「しかし、同氏は現在同家に居住していません」
と報告は続いていた。
「・・・門田源一郎氏はすでに在外勤務中に夫人を失い、子供もありません。現在、同番地には門田氏の実兄夫婦が生活しておられます。つまり、門田氏は終戦後外地から引き揚げると、外務省の役人をめ、実兄夫婦のところに下宿していたわけであります。
ところが昭和二十一年ごろ同氏は関西方面に行くといって出たまま未だに消息が知れません。実兄夫婦の話によると一応家出人捜索願は出しているそうですが、現在死んでいるか、生きているか消息が知れないそうです。
これについて少し変わった話があります。というのは、門田氏が家出して間もなく、門田源一郎は死亡したという噂が東京の外務省関係者の間で立ったことです。実兄夫婦の話によると、多分、門田の失踪しっそうを、東京方面では死亡したものと勘違いして、そのようなことになったのではないかと語っていました」
これは一体どういうことなのか、と添田彰一はその報告文を読み終わってから額に手を当てた。
この文面を見て分かったのだが、添田に門田氏の死亡を教えてくれた役人も、噂で錯覚を起こしていたらしい。
しかし、この間違いは一体どのようにして起こったのだろうか。添田はこの辺に何かの事情があるように思われた。
しかいs、これで事態は一層明瞭になった。
大和やまとの郡山から急遽きゅうきょ上京した伊東忠介が、門田源一郎を訪ねて行ったのは、ほぼ間違いないのだ。
このことは、ほかの人たちが門田の死を信じているのに、伊東忠介だけは彼の生存を知っていたことになる。ということは、さらに伊東忠介が大和の地方都市で雑貨屋を営みながら、絶えず公使館時代の人間関係に注意深い眼を持っていたことになるのだ。
ひとつ仮定を立てて見よう。
伊東忠介は、野上顕一郎が遺した筆蹟のよって、彼が公表されたように死亡したのではなく、生存して日本に来ていることを知った。寺好きだった野上顕一郎の性格がわかっているので、彼が久し振りに大和の古寺を見に来たのだろうと察したに違いない。すると。伊東忠介は野上顕一郎が東京に本拠を置いているものと推定をつけたのであろう。
伊東忠介は早速上京して、門田の隠れ家を訪ねて行った。それがあの世田谷の奥だったのではあるまいか。
それにしても、門田は何のために失踪したのか。そして、いかなる理由で死亡の噂が立ったのであろうか。彼は公使館時代は単なる書記生にすぎなかった。
しかし、添田はここで、また別な考えを立ててみる。
それは、一等書記官の野上顕一郎が、その中立国からスイスの病院に移った事情である。もちろん、単独で野上がスイスに向ったとは思えない。もし、のちの死亡公表が嘘であるとすれば、殻のスイス行きはかなり偽装が必要だったと思える。例えば、野上顕一郎は第一に病人になることが必要だった。
このとき、門田書記生が野上顕一郎一等書記官に付き添ってスイスに行ったということは十分に考えられる。そうだ、この辺の秘密が大事なのだ。
伊東武官は、野上顕一郎一等書記官の死亡を本当に信じていた。しかし、野上顕一郎が生きているとすれば、当時スイスに同行した門田書記生に事情をたださなければならないことになる。これが伊東忠介を世田谷の奥に迷い込ませた理由ではなかろうか。
それなら、なぜ、伊東忠介は殺されたのだろうか。果たして門田源一郎の線が伊東の伊東の命を奪ったのだろうか。
添田はここまで考えてきて、いやいや、まだ、もう少し考えが足りないと思った。
それは、伊東忠介が品川の宿に泊まった時、すぐには世田谷の方には行かず、田園調布と青山を廻っていることだった。
田園調布には滝良精がいた。青山には村尾芳生がいた。両人とも野上顕一郎には極めて近い関係にある。
伊東忠介がこの二人を訪ねたであろうことは、彼が前に考えたところだった。この場合は、ただ、野上顕一郎のことを訊ねに両家を訪問したものと思っていたが、実は、そのことよりも門田源一郎の所在を彼は訊きに行ったのではあるまいか。
つまり、当時の外交官補村尾芳生と、彼の任地に駐在していた新聞特派員滝良精(あとでスイスに移った)とは、門田の現在を知っているのではないか、と伊東忠介は思ったのであろう。彼が両人を訪問したのは、野上顕一郎のことがわからなければ、門田の現在でも知りたいという目的があったものと思う。
両人のうち、どちらかはわからないが、とにかく、門田源一郎が世田谷方面に住んでいることを伊東に教えたのである。伊東はその言葉で世田谷に向ったに違いない。
但し、この場合、添田の想像ででは、滝良精がそれを伊東忠介に告げたような気がする。
それは、滝良精の態度だった。急に世界文化交流連盟の理事を辞めて、蓼科あたりに引っ込んでみたり、すぐにしこから京都に向ったり、不思議な行動が多い。秘密めいているし、明らかに滝氏は何者かを怖れているようだった。
そういえば、かつて、伊東忠介の名前が旧軍人の横の連絡名簿の中から脱落していたことを添田は思い出した。
それは、すでに田舎の雑貨屋になってしまった伊東忠介が古い夢を捨て去ったともいえるが、今度の事実で、そのことはかえって伊東忠介が秘密な連絡を中央方面と保っていたことを暗示しているように思える。
それにしても、これはもう一度滝良精と村尾芳生に会う必要がある。いや、ぜひ会わなければならない、と決心した。
2022/12/04
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