~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-01)
添田彰一は滝良精氏の自宅に電話で問い合わせたが、やはり氏は留守で、その旅行先もわからないという返辞だった。
留守宅には何かの形で連絡があるに違いなかったが、そこまでは押して訊けなかった。また、行先を家人に口止めしているだろうから、これは質問しても無駄だと諦めた。
あとは村尾芳生氏だった。
村尾氏は京都のMホテルでピストルで狙撃され負傷している。外務省にはまだ出勤していないだろうと思ったが、一応、電話して問い合わせると、やはり病気で出ていないということだった。
「いつまでお休みですか?」
「さあ、あと二週間ぐらいは出て来られないでしょうね」
「いま、どちらに居られますか?」
「よくわかりませんが、伊豆いずのどこかの温泉場で静養されていると聞いています。くわしいことはこちらではわかりません」
「しかし、課長さんですから、あなたの方は連絡の都合があるのでしょう?」
「さあ、そういうことは外部にはお知らせしないことになっています」
やはり、実際のことは知らせてもらえなかった。だが、村尾課長が伊豆の温泉に居ることは、今の電話で初めて知った。
村尾氏はMホテルでは偽名で通し、そのまま京都市内の病院に入って手当を受けていた。京都支局の話でも、負傷はそれほどひどいとは思われないから、すでに病院を去っているのは本当であろう。電話に出た課員が具体的に養生地を教えなかったのは残念だが、伊豆の温泉地と聞いたのは収穫だった。
伊豆の温泉といってもいろいろある。それに、村尾氏は相変わらず偽名で旅館に入っているに違いないから、一々電話で各地の旅館に聞き合わせることも出来なかった。
添田は村尾の自宅に直接行ってみることにした。滝の行方がわからない以上、何としても村尾には会いたいのだ。
村尾の家は青山南町の電車通りから裏に入ったところだった。この辺は一帯が中流家庭の住宅地になっている。
その家はすぐにわかった。
添田彰一は玄関の横の赤いかえでの植込みを見ながら、標札のかかっている格子戸の前に立った。
最初に出た十八、九くらいの女中に代わって、三十四、五の、細面ほそもての女性が出て来た。
「失礼ですが、奥さまでしょうか?」
「いいえ、わたくしは親戚の者ですが、姉はちょっと他所よそに行っております」
「ああ、では、奥さまのおお妹さまですか?」
「はい」
玄関に膝をついているそのひとはうなずいた。
「それは失礼しました。村尾さんはご病気で伊豆の方へ静養に行っていらっしゃると外務省で聞きましたが、奥さまもご一緒にいらしてるんですか?」
「はあ」
夫人の妹という人は眼を伏せた。そのことではあまり答えたくないという表情だった。
「それはご心配ですね。ご容態はどうなんでしょうか?」
「はあ、まだくわしいことはわかっていません」
彼女は言葉を濁していた。
2022/12/05
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